【キャッチコピーでみるゲーム史】第6回『思いのままに生きろ。』 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

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【キャッチコピーでみるゲーム史】第6回『思いのままに生きろ。』

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【キャッチコピーでみるゲーム史】第6回『思いのままに生きろ。』
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キャッチコピーでみるゲーム史、第6回は「思いのままに生きろ。」。ちなみに関連作品のコピーは「日本未発売。ゲームとは、何か。世界が、しびれた。」「さらなる自由を。80年代へ…。」です。読者の中で知らない人はいないであろうこの超メジャーなシリーズは、当時から”自由”とは 分かち難い関係にありました。

さて「思いのままに生きろ。」は、日本では2007年1月25日に発売された『グランド・セフト・オート・サンアンドレアス』(Grand Theft Auto:San Andreas)』のキャッチコピーのひとつです。当時はテイクツー・インタラクティブではなく、カプコンからリリースされており、キャッチコピーも後者のものです。

    「ゲームとは、何か。世界が、しびれた。」(グランド・セフト・オートIII)
    「さらなる自由を。80年代へ…。」(バイスシティ)
    「思いのままに生きろ。」(サンアンドレアス)

シリーズ三作を並べてわかるのは、いずれも”自由”が象徴的な作品だということです。「ゲームとは」という根源的な問いにまで遡求したのが、日本での衝撃的デビューを飾った『GTA III』。自作の『バイスシティ』で「さらなる」という言葉を用いていることからも分かるように、これは自由なゲームなのだ、ということはすでに認知されていました。そして日本での三作目となる『サンアンドレアス』では、その上をいく自由が宣言されています。

世界で一番売れているゲーム、日本上陸ーー。『GTA III』はそうした触れ込みで日本に乗り込んできました。カプコンが発売前に出したブックレットには、日本のGTAフリークスとして著名人によるコメントが掲載されています。その中で、ゲームアナリストの平林久和氏は「GAMEはいつの間にかGIMUになってしまった」という書き出しでコメントを残しています(※GIMU=義務)。以下一部引用。

    ところが、最近はというと、GAMEは輝きを失ってGIMUに成り下がってしまった。ルールを覚えなくてはいけない、物語を読まなくてはいけない。やらなくてはいけないことだらけ。僕の友人の多くが「時間がかかって面倒だから」と言い残して、近頃あまりゲームをやらなくなっている。GAMEに慣れっこになってしまったせいだろうか。」
    (中略)
    とにかく、自由であることに驚いた。「グランド・セフト・オートIII」は、その頃どんなゲームをやっていても感じてしまっていたGIMU感から僕を解放してくれた。

そもそもゲームにおける「自由」とは何でしょうか。今回、私は以下のように考えてみました。

    特A:破壊(既成のゲームに”外部”から介入する)
    A:創造(ゲームの中に新しいものを創ることができる)
    B+:選択(様々な選択肢が用意され、実際に選択できる ※物語に関わるもの)
    B-:選択(様々な選択肢が用意され、実際に選択できる)
    C:移動(どこへでも行ける)
    D:成長(キャラクターを好きなように育てられる、カスタマイズできる)
    ※上に行くほど「自由度」が高い

「オープンワールド」なんて言葉も浸透していなかった『GTA III』発売当時。その主要素である「移動」の自由は『GTA III』の最大の特徴でもありました。もうひとつの特徴は、「選択」の自由でした。一般的なゲームではゲームルールとして禁じられているか、そもそも選択肢にないという「NPC(一般住民)の殺害」という行為を選択できる、という自由。それは、リアル世界での犯罪を行えるという快感というよりも、ゲームルールを侵犯してしまった(実際はしていないが)、という快感なのだと考えています。

ちなみにAの「創造」は、一部のMODを含めゲームルールに則った範囲での創作行為。特Aの「破壊」は、非公式のチートやツール使用などゲームルールを壊すレベルの、データへの介入行為を指します。これはゲームそのものの自由度とは関係のない、ゲームの作り手からも解放された”自由”であり、他とは少し異なります。

思いのままに生きろ、とアドバイスをくれる『サンアンドレアス』には、「移動」や「選択」に加え、キャラクターの能力や外見を自由に変えられる「成長」や、ちょっとした「創造」の要素もありました。

一方で「HotCoffee事件」は、まさに特A級の”自由”に関する問題でした。「PC版において、Modによって、ガールフレンドとの性行為を行えるミニゲームの存在が露わになった」というものです。データは実装されているが封印されている、というコンテンツが明るみになったこの一件は、破壊による自由のようでありながら、実は選択の自由の範疇だった、という言い方ができるでしょうか。いずれにしろGTAを象徴する事件であり、「GTA=自由=無法」といったイメージを持ってしまう一例でもありました。

やや横道に逸れましたが、ここで”オープンワールド”と自由について考えてみたいと思います。

以前、Game*Sparkで掲載した「【海外ゲーマーの声】ユーザーが感じる「オープンワールド疲れ」とは」という記事を覚えている方はいるでしょうか。

「ほとんどの収集要素とメインクエストが超だるい」「自由度の高いゲームをやる為の自由な時間がない」「ミニマップでアイコンを見てまっすぐ向かったりファストトラベルを使って移動するタイプには惹かれない」「お使いクエスト(Fetch Quests)」や「ベルトコンベアーみたいに反復的で、流行を追っているだけ」のゲームに対しての低評価など、一部のユーザーの声を取り上げていました。

ここで前述の平林氏のコメントを思い出してみたいと思います。そのコメントと「オープンワールド疲れ」を重ねてみると、こんな風に読むことができないでしょうか。

「ところが、最近はというと、オープンワールドのGAMEは輝きを失ってGIMUに成り下がってしまった。収集要素をこなさなくてはいけない、お使いクエストをしなくてはいけない。やらなくてはいけないことだらけ。僕の友人の多くが「(自由度の高いゲームは)時間がかかって面倒だから」と言い残して、近頃あまりやらなくなっている。オープンワールドのGAMEに慣れっこになってしまったせいだろうか。」

かつて『GTA III』が衝撃を与えたオープンワールド。自由の代名詞だったそうしたゲームたちは、いつしか自由とは正反対の義務感を与えるものになってはいないでしょうか。親切なクエストリストや詳細なナビに加え、トロフィーや実績。「いろんなことがやれる」ではなく「いろんなことをやらなくてはいけない」と感じてしまう……。

そんなユーザーが少なからずいる中で、GTAシリーズもまた、自由との向き合い方について試行錯誤しています。

私は『GTA V』を、プレイしたシリーズ作品で最も”自由度の低い”作品だと感じました。ミッション中に演出が組み込まれたことで、行動に制限が加えられたこと、主人公を複数にしたことで、自分という存在が希薄になったこと、あらかじめ暴力的なキャラクター、金持ちのキャラクターを入れることで、暴力と金への欲求が削がれたこと、などなど。だからこその『GTAオンライン』同梱であり、後者こそが、GTAの血統を引き継ぐものだ、とも。異論はあると思います。

最後に、同ブックレットに掲載されていた、ダン・ハウザー氏のコメントを紹介したいと思います。

    不思議に思われるかも知れないけど、「GTA III」を作るにあたって、ボクらは市場調査なんてしなかった。市場調査を重視しすぎるから、みんな同じようなゲームばかりが溢れてしまうのではないでしょうか。自分たちの好きなゲーム、遊びたいゲームを作ろうというのが、「GTA」シリーズの伝統です。それがオリジナルなゲームになっている最大の理由なのでしょう。
《Kako》

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