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【コラム】『FF15』の終わりなき旅―歪な世界の多重リアル構造【ネタバレ注意】

本記事には『ファイナルファンタジーXV』のエンディングに言及したネタバレが含まれています。具体的な言及は避けていますが、ゲームをクリアしていない方は閲覧・取り扱いに注意してください。

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■自然だから浮いている

ノクティス・イグニス・グラディオラス・プロンプトの仲間たち4人で続いていく旅は、メンバー交代も大きな役割の変化もなく続いていきます。彼らとのコミュニケーションは濃密で、テキストとは違う種類の言葉はとても新鮮です。物語を駆動させるための説明ゼリフや、関係性を示すために用意されたイベント感まるだしの長ゼリフといったものとは異なる、“なんの意味もない”言葉がふとこぼれたとき、そこにリアルがありました。

ゲームを長く続けていると、そうした一回性のつぶやきだったはずのセリフが繰り返されていき、いわゆる「膝に矢」的なユーモアを漂わせてくれたりもしますが、それを許容できるほど、4人の間には人間らしいコミュニケーションがありました。

※「膝に矢を受けてしまってな...」: 『The Elder Scrolls V: Skyrim』の衛兵のセリフ。いたるところで違う衛兵から同じセリフを何度も聞くことになる。


では一方で、この世界の他の住人との交流はどうでしょうか。ノクティス王子がどのくらい有名なのかはともかく、通り過ぎても全く意に介さない住人たち、車を取り囲んでも何の反応もないドライバーたち、関係が大きく深まることなくクエストだけを持ってくる知り合いたち。

仲間たち4人の交流が濃密で自然であればあるほど、それ以外の人物たちとの交流の希薄さは、不自然なものとして悪目立ちしていきます。

まるで”配置”されているかのように、ずっと同じところに佇んでいる様は、昼夜の概念を導入したことでさらに際立ちます。野菜を買い取るためだけに、他人の畑のそばに昼夜かまわず立っているジャケット姿の小ぎれいな男に、生活感や生命感を感じることは難しいです。


現代的で現実のような世界がありながら、現実世界で当たり前にできることができないとき、プレイヤーはその世界に「ルール」を認め、それが「ゲーム」なのだと認識します。建物内でジャンプできない、街に入ると急にダッシュを禁じられ、刃物を振り回すことはもちろんNG。現実では「法=ルール」として規制されていても、やるかやらないかの選択肢は残されています。『GTA』は舞台設定が現代だからリアルなのではなく、現実でできるはずのことができるからリアルなのです。

ゲームではルールとして規制したとたん、プレイヤーに選択肢はありません。『FFXV』においてそれが不満として噴出したのが13章でした。困難で長い道のりだったとしても、それが仲間の大切さを感じるためなら納得がいったはず。13章は、突然ルールとしていろいろなことを規制され、ただただ“自由度の低いゲーム”としか感じられないものでした。

■ゲーム世界から浮いている


生活感のない住人たち。ルールを強制される世界。それはまさにRPGにおける「NPC」であり「ゲーム世界」です。一方で、まるで現実のような自然なコミュニケーションを展開するノクティスたち4人のキャラクター。これらを組み合わせるとどうなるか。

ノクティスたち4人のリアリティはそのままに、世界がゲームの舞台に過ぎないと感じたときわたしは、彼ら4人が“まるでこの世界を舞台にしたRPGをプレイしている”かのような感覚を覚えました。「(徒歩で移動しながら)だりぃな」「(クエストを受注して)これっておつかいだよね」といった会話は、プレイヤーがゲームに対して発するつぶやきと同じだと感じたのです。

ノクティスたちは、この世界の住人ではなく、この世界に参加しているプレイヤーたちだった。そうした立ち位置で、見た目だけではなく、存在そのものも「浮いている」のです。


彼らの交流の中で、死への恐怖が欠如していることもそう感じる理由かもしれません。リアルに近づけば近づくほど、死に対して恐怖を抱かないことは違和感となって浮上してきます。「フェニックスの尾を握りしめてれば何とかなる」という感覚は、どちらかといえばゲームをしているプレイヤーの感覚です。

わたしが本作をプレイして素朴に感じた疑問は「ファストトラベルの10ギルはどこへ消えるのか」ということでした。ハンマーヘッドに車を運ぶのに100ギルかかるのは納得できます。でもファストトラベルというのは「実際は移動しているけど割愛します」ということであり、眠っている間も時間は経過しているようなものです。彼らは10ギルを誰に払っているのか。わたしには、ゲームに負荷をかける際に支払う利用料のように思えてくるのです。

わたしたちの世界と同じレベルに引き上げられたように見えた『FFXV』の世界は虚構にすぎず、リアリティの引き上げはノクティスたちだけに行われていた。歪な世界は、プレイヤーとプレイヤーキャラクター、そしてゲーム世界の歪な関係性によるものです。


■終わりなき旅

スタンドアロン型のRPGでは、ラストダンジョンへ赴き、ラスボスを倒し、エンディングを迎え、スタッフロールを見てゲームを終える、というのが一般的です。豪華で感動的なエンディングはひとつのご褒美として機能していました。RPGをクリアすることは、エンディングを迎えることとほぼ同義であり、エンディングを迎えることはゲームが終わることとほぼ同義でした。

ゲームの終わりを先延ばしするために、RPGでは様々な要素が用意されていきました。ラストダンジョンの前で「ここから先は戻れないぞ! それでも行くか?」という親切なNPCに対し「いいえ」を選択し、イベント回収や隠しボス討伐などにいそしむ、ゲームの総ざらいのような期間。それをわたしはRPGにおける「モラトリアム期間」と呼んでいます。

※モラトリアム:知的・肉体的には一人前に達していながら,なお社会人としての義務と責任の遂行を猶予されている期間(デジタル大辞林)

『FFXV』ではどうか。オルティシエ以降、“基本的に”振り返ったり立ち止まったりすることを許されない冒険において、その期間はあるといえばある、ないといえばない、という曖昧な答え方になってしまいます。車で好きなところへ行ける序盤の旅は、王としての責任を全うするために力を蓄える期間であり、まだ一人前だとは言えない、まだモラトリアムとは言えないからです。


ここで“基本的に”という前提をつけたのは、本作が空間の移動を「時間の移動」という能力で処理する、という極めて厄介な方法をとっているからです。あの頃の自由な旅の場所に戻るためには、テレポーテーションではなくタイムリープをしなければならない。これは物語の非可逆性を考えると仕方ないことではありますが。

現在の時間からみて、それが「過去に戻る」行為であっても、実際に生きている彼らにとってその過去は「現在」です。過去に戻ったとき、過去は「現在」となり、現在は「未来」となります。そして、その「現在」は「未来」にいっさいの影響を与えない断絶された世界です。

■エンディング=終わりではない

本作では、いわゆる「ラスボス―エンディング―スタッフロール」というゲームクリアの3点セットを終えた後、自由に旅を楽しむための15章「旅路」が登場します。クリア後の追加要素など、クリア前とは異なる要素も存在します。わたしはこのパートが“15章”として存在することに意義を見出したいと考えます。

クリア直前の「モラトリアム期間」と決定的に異なるのは、これがクリアした後である、ということです。能力としては成熟していながらも、世界を救うという責任を遂行するための準備期間なのだ、という建前があるモラトリアム期間と比べ、この15章は、世界を救うことが確定している世界です。

過去に戻ったとき、その過去は「現在」となり、現在は「未来」となる。その現在でどう振舞おうと、すでに世界を救うという未来が確定している世界が、15章なのです。そこには未来に対していっさいの憂慮や不安はありません。現在は未来にいっさいの影響を与えず、望むかぎりいつまでも終わることがありません。


くりかえしますが、15章は「ラスボス―エンディング―スタッフロール」の後の世界です。クリア=エンディング=ゲームの終わりではありません。本作は「エンディングで終わり」ではなく「終わらないことで終わり」という作品なのです。

RPGのエンディングでは、しばしばハッピーエンドを余儀なくされます。悲劇的な結末を迎えただけで評価を下げたくなるのは、他のジャンルに比べてかける時間が圧倒的に長いことに加え、プレイヤー=プレイヤーキャラクターという前提のもとで自身の願望が反映されることを期待するからです。『FFXV』が悲劇かハッピーエンドかは、受け止め方次第かもしれません(ちなみに悲劇=バッドエンドではありません)。

いずれにせよ「終わらないことで終わり」という本作では、エンディング=ゲームの終わり=プレイヤー&プレイヤーキャラクターの死という方式を回避しています。これは、エンディングを多様なものにするためのひとつの手段となりえます。エンディングを迎えたから終わりではなく、そのあとも世界は続いていく、そしてプレイヤーもプレイヤーキャラクターも永遠性を獲得する。


「終わらないことで終わり」という分かりづらい書き方をするのは、単に「終わらない」ということとは違うイメージを持っているからです。たとえば、逆光が照らす長い道の上を走る車、乗っている4人のアップからすこしずつ離れていき、フェードアウトしていく映像のような。あるいは、宿敵を倒したあとの長いエピローグかと思っていたら、新たな旅立ちを描きつつ「彼らの冒険は終わらない!」といって最終回を迎える連載のような。

15章は、災厄が訪れたのちに世界を救うことが約束された、いっさいの憂いのない「現在」であり、そこでの行動は物語にいっさいの影響を与えません。能力を高めたり、強い武器をとったりすることは、もはや「世界を救うための手段」ではありません。モンスター討伐をしなくても世界は崩壊しません。「やってもいいし、やらなくてもいい」ことが羅列された、のっぺり、まったりとした空間が広がります。


本作の「リアル=終わらない現在」は、いわゆる「終わりなき日常」とは異なります。それは災厄の到来も輝ける未来も確定した世界です。

 世界の平和が約束された、いっさいの憂慮のない世界。
 自らの死より仲間との別れを惜しんだ、主人公の願望を実現させた世界。
 クリアや物語といったものは傍においやられ、仲間との交流が前景化した世界。
 義務の遂行が確定しながらも、いつまでも猶予されている世界。

それは永遠のモラトリアムとも呼べる世界です。

具体的な話をすれば、「終わらない現在」という世界では、横への拡張は無限に可能です。物語と断絶したその世界では、新しいコンテンツは仲間との交流を深めるために用意されることになります。

次ページ: 新たな世代のための新たな礎

《Kako》
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