本記事は『龍が如く8』のラストシーンに言及しています。
プレイ後にお読み下さい。

『龍が如く』シリーズの新主人公、春日一番はそれまでの桐生一馬とは反対の熱血キャラクターであり、命を張ったやりとりの末にも「赦し」を与える誠実さが大きな魅力です。『龍が如く8』の東京ゲームショウ2023のブースでレオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」をモチーフにしたビジュアルが話題となりましたが、こうしたキリスト教の文脈は前作『7』から取り入れられていました。伊達が追及する中嶋社長の知らない振りをする態度に「ペトロの否認」を連想した人もいるでしょうし、特に、桐生一馬の「極道の全ての罪を背負う」というスタンスはその象徴とも言えるでしょう。
もちろん作品中のどこまで意図しているかは分からないので、いわゆる「そこまで考えてないと思うよ」になるかも知れませんので、あくまでも解釈の一つとして楽しんでいただければ幸いです。(引用は新改訳第三版)
最後の晩餐
ローマに逮捕される前の晩、キリストと使徒達はユダヤ教の儀礼である過越の祭りを行ないました。その食卓にてキリストは衝撃的な告白を行ないます。
マタイの福音書 2章21節
みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
元となったレオナルド版はこのイエスの言葉が告げられたまさにその瞬間を切り取り、動揺する使徒達をダイナミックに描いています。この絵の中で最も注目されるのはキリストから左に3人目、裏切りの対価である銀貨を握りしめるユダです。2023年のTGSブースでは、横長のビジョンありきで作ったという「最後の晩餐」風イメージが5パターン存在し、位置を組み替えてユダの位置に座るのは『8』の新キャスト4名と前作から続投の沢城の5人。物語上でもそれぞれの「裏切り」があり、どうケジメを付けていくのかがストーリーを動かす鍵となるのです。


聖書ではこの場面の後に、キリストはオリーブ山に登ってこれから降りかかる受難への怖れを吐露し、神に祈ります。如何に神のこといえども、目の前に迫る死を無私に受け入れられるわけではない、そんな人間的な一面を垣間見る「ゲッセマネの祈り」の場面です。

十字架、ゴルゴダの丘
翌日にユダの密告で捕らえられたイエスは取り調べと裁判を経て、十字架の磔刑が宣告されました。形状のゴルゴダの丘に着くと、ローマ兵達はイエスを侮辱するために服を着替えさせます。
マタイの福音書 27章28~30節
そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それからいばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまづいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」またかれらはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。

春日一番の格好はワインレッドのスーツに、有刺鉄線が巻かれた金属バット。これは「緋色の上着」「いばらの冠」「葦の錫杖」を現代的に表わしたものと言って良いでしょう。背中の入れ墨は「龍魚」ですが、初期のキリスト教徒は符丁として魚のマーク「イクトゥス」を用いており、イエスが救世主だと示すシンボルでもあります。
それからイエスは再び元の服に戻され、重い十字架を背負いながらゴルゴダの丘を登っていきます。見物人はイエスに次々と罵倒の言葉を浴びせ、イエスもついに「神よ、何故私を見捨てたのですか」と叫び、間もなく息を引き取ります。

復活
ルカの福音書 24章22~23節
また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻ってきました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、というのです。


磔刑で息絶えたキリストは石棺に埋葬されたのですが、イエスを慕っていた女性達が3日後に墓を見に行くと、石棺の中には何も入っておらず、神の使いがイエスの復活を告げます。蘇生したイエスがどれだけの時間活動したか、どれだけの人に会ったかは福音書でも差異がありますが、最初は見知らぬ人だと思ったが、後からイエスだったと気が付いた、という形もあります。『龍が如く8』では、桐生一馬の「復活」を伊達が演出する形になりましたが、そこで語られる桐生一馬を信じる言葉は、きっと本人にとって何よりも嬉しかったに違いありません。


左の頬を差し出す
エンディングの場面で、春日は寄ってきた一人の男に何度も殴られながら、一度も殴り返さずに耐え続けました。この行いは、海老名が語った「目には目を、歯には歯を」と対になるものです。
マタイによる福音書 5章38~44節
「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなた方は聞いています。しかし、わたしはあなた方に言います。悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つようなものには左の頬も向けなさい。(中略)自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

どんな卑劣な敵だったとしても、決して見放さず愛を注ぐ。そのためならどんな苦しみも痛みも自分で引き受ける。その姿に多くの人が胸を打たれたと思います。

光と闇、グレーゾーン
『7』『8』ではグレーゾーン、灰色の中で生きていくことが大きな問いになっていました。やり直しの機会は与えられないのか、清廉潔白な人間でなければ排除されなければならないのか、その末に桐生が最後に絞り出した「許してくれ…」の言葉に、皆さんは何を感じたでしょうか。『7』の副題『光と闇の行方』と合わせて、それを読み解く光と闇についての記述が聖書の中にあります。
ヨハネの手紙第一 2章9~11節
光の中にいると言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお、やみの中にいるのです。兄弟を愛する者は、いつも光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くかを知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。
ヨハネの福音書 8章4~7節
イエスに言った。「先生、この女は姦通の現場でつかまえられえたのです。モーセは律法の中で、こういう女は石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」(中略)イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
同1章5節
光はやみの中で輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

「神は光であって、神には少しの暗いところもない」であり、逆に言えば人間であれば必ず何かしらの「暗いところ」、つまり大なり小なりの罪を抱えて生きています。であればこそ、光が照らし出した自身の闇をはっきりと見て、悔い改めながら光に向かって進んでいくことが闇に打ち勝つ唯一の方法なのです。


春日自身も元東条会の人間である以上、完全な聖人ではありません。何をされても許してしまう度量の広さが「底なしのバカ」に見える人もいるでしょう。一般的な感覚は、そう簡単に許せないトミーの方がずっと近いと思います。それでも、人を信じる「愛」という光に向かって走り続けるからこそ、闇の中でもがく人々を照らす究極の希望となるのではないでしょうか。
おまけ
「100億の少女」という途方もない富の奪い合いから始まった『龍が如く』。全てを失い、命を削り尽くした果てに桐生の手に残ったものは……。















