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【JRPGの行方】第3回 『FF』から見る「物語」と「キャラクター」(前編)

日本を代表するRPGシリーズである『ファイナルファンタジー』を取り上げ、物語の構造やキャラクターとプレイヤーの関係について、二回に分けて書いていきたいと思います。前編はFF7~FF10-2まで!

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【JRPGの行方】第3回 『FF』から見る「物語」と「キャラクター」(前編)
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■「物語」の完成形としての『FF10』

物語の「セカイ化」が進む中、2001年発売の『ファイナルファンタジーX』で「物語」は頂点を迎えました。

第1回でとりあげた「アニメ化と観る物語の融合」はここでひとつの完成を迎えます。キャラクターにはついに音声がつき、ハードの世代交代でCGムービーはさらに豪華になりました。すばらしい主題歌にあわせて流れる美しいムービーは、多くの人に「感動」をもたらしてくれました。すでに「泣ける」ことはRPGの賛辞として最高のものとなっていました。当時はキャラクターに声がつくことに抵抗を感じた方も多かったかと思いますが、今ではあらゆるRPGで、当たり前のように受け入れられています。

さらに第2回で取り上げた「モラトリアム期間の延長」として「ブリッツボール」というスポーツに延々と打ち込んだり、「すべてを超えし者」という、もはや世界の序列など完全に無視した名前の裏ボスも登場しました。世界を救うという使命を背負っているはずの旅は、多くの寄り道を許し、圧倒的な強さの裏ボスはラスボスの弱さを際立たせていきます。

その一方で「タナトス」を失わない形として、ゲームのエンディングで「ティーダ/プレイヤーの同時消滅」という方法をとりました。「プレイヤーと主人公の物語を同時に終わらせる」という最期。モラトリアムの延長によるタナトスの失効は、主人公の消滅という悲劇によって抑制されたのです。

さらにさらに、「世界の危機=父親」という究極の「セカイ化」を物語の型としつつ、「シン=罪=父親」を殺すという「ビルドゥングスロマン」、主人公の成長における「父親超え」という最終目標を描きました。仮にユウナが主人公なら、社会的承認によって召喚士という役割を背負った主人公が自らの犠牲を経て世界を救う(ユウナが究極召喚を使うと「シン」を倒す代償に命を落とす)という典型的な話になるでしょう。『FF10』の「きみとぼく=ユウナとティーダ」は、世界の命運を背負うヒロインの犠牲を回避しつつ、消滅する主人公が自身と深い関係にある「父親=世界の危機」を超克することで、「物語」を終わらせるのです。

シリーズとしても国産RPGの歴史としても、『FF10』はひとつの区切りとなる作品だった、といえるのではないでしょうか。

■物語の可視化と弱体化

ここからは、『FF10』以降の作品をみていきたいと思います。シリーズ初の続編作品となった『ファイナルファンタジーX-2』(2003年)では、「強くてニューゲーム」「コンプリート率」という要素が採用されました。前回も少し触れましたが、強くてニューゲームでは「プレイヤーはゲームバランスという名の神の領域をはじめから侵して」おり、そこでは物語はプレイヤーにとって対峙するものとして存在するのではなく、繰り返し消費されるために用意されることになります。

さらに厄介なのが「コンプリート率」です。

    「コンプリート率」各イベントごとに値が設定されており、特定のセリフを聞くことで習得することができる。コンプリート率によってエンディングが異なり、エンディングの時点でコンプリート率が100%以上に達した場合のみ、本当のエンディングを見ることができる。強くてニューゲームで始めても稼いだデータを引き継げる代わりに、重複での取得はできないようになっている。(Wikipedia)

ノベルゲームでしばしば見られるこの達成率という要素は、繰り返しプレイすることを前提にしています(だからこその「強くてニューゲーム」なのですが)。この数字によって、ゲームの進行度は明確になり、その世界は有限なものとなっていきます。ではこの達成率とは、誰が、何を達成したものなのか? それはもちろんプレイヤーが、ゲームのイベント消化を達成したもの。重要なのは、それが(主人公であるユウナではなく)プレイヤーにとってのもの、ということです。

主人公=プレイヤーという位置づけにおいては、物語とは主人公が体験した出来事を示すものでした。『10-2』には、プレイヤーにだけ分かる達成率という数字があります。物語がここで100%になるよ、という範囲が可視化されることで、プレイヤーはメタレベル(ゲーム世界の上部)に引き上げられます。けっしてユウナが「いま80%かぁ、まだまだがんばるぞ♪」となるわけではありません。そうしてプレイヤーは主人公から離れ、異なるレベルに位置することになります。

私はシリーズの中でもベスト3に入るほど本作が好きですが、どうしてもユウナをはじめとしたプレイヤーキャラクターに感情移入できない。その理由を考えていました。シリーズの続編で主役交代したからなのか、女性キャラが主人公だからなのか、おしとやかだったユウナがハジけちゃったからなのか……。

実はそうではなく、そもそも主人公=プレイヤーという考え方自体が間違っていたのです。「コンプリート率」という物語の可視化と、物語のレベルを超えた強さを手に入れる「強くてニューゲーム」との組み合わせにより、プレイヤーは限りなく神の領域に近づいていきます。

まるで『ザ・シムズ』のように、上からユウナを導きながら、様々な人々や出来事との出会いで成長をうながし、ついに想い人との再会を果たさせる、これがこのゲームとの正しい向き合い方なのです。神が人を操るーーそう、『FF10-2』は「箱庭ゲーム」だったのです。それも、ユウナを中心とした箱庭です。達成率はプレイヤーに世界を見通す力を与えると同時に、まるで天動説のように、主人公を中心として回る世界を明確にしました。『FF10-2』の世界は、ユウナを中心に周る箱庭世界であり、プレイヤーは神としてそれを導くのです。

本作に限らず、神にとって、下界の小さなイベントのひとつひとつは瑣末なものに過ぎません。エンディングもあくまで主人公のもので、プレイヤーが主人公の立場から体感できるものではなくなってしまいました。プレイヤーがRPGで獲得した神の視点は、物語に対峙する際の客観性を産み、結果としてそれを弱体化させる要因のひとつともなりました。RPGをプレイしていて、盛り上がっている場面にも関わらず、まるで傍観者のように冷静な自分に気づくことはありませんか?

この箱庭世界において神の位置にいるのはプレイヤーですが、実はもうひとり、この位置に存在する人物がいます。

それがティーダです。前作でプレイヤーとともに消えたティーダは、本作で神になったプレイヤーと同質化した上で、ユウナの様子を「外部」から眺めています。そして、ユウナが自身の物語を繰り返しながら世界を導いていくことで、まるで「素敵だね」とねぎらいの言葉をかけんばかりに物語の「内部」へ還っていくのです。外部に取り残されたプレイヤーは、ユウナとティーダの再会を、まるで仲人のような微笑みで見送るしかないのです。……という考え方はこじつけが過ぎるかもしれません。分かってはいます。

次回は『ファイナルファンタジーXI』以降について書いてみたいと思います。
《Kako》
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