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【JRPGの行方】第3回 『FF』から見る「物語」と「キャラクター」(前編)

日本を代表するRPGシリーズである『ファイナルファンタジー』を取り上げ、物語の構造やキャラクターとプレイヤーの関係について、二回に分けて書いていきたいと思います。前編はFF7~FF10-2まで!

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【JRPGの行方】第3回 『FF』から見る「物語」と「キャラクター」(前編)
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日本を代表するRPGシリーズである『ファイナルファンタジー』を取り上げ、物語の構造やキャラクターとプレイヤーの関係について、二回に分けて書いていきたいと思います。各作品のあらすじやキャラクターの紹介などは、紙幅の都合上省かせていただきますので、あらかじめご了承ください。RPGのシリーズ作品はいくつかありますが、FFシリーズを選んだ理由としては、多くのユーザーに知られていること、それぞれの作品が物語上の関係を持たない個性を持っていることが挙げられます(あとは筆者がFF好きだということ)。

■アルティマニアという危険な魔法

FFをプレイしたことがある人で、アルティマニアを知らない人はいないのではないでしょうか。『ファイナルファンタジーVIII』から発売されミリオンセラーも記録したこのシリーズは、「ゲームの全てを遊び尽くす」というコンセプトで制作されたあらゆる情報がつまった攻略本。FFをプレイしていて「まだやりこんでないからアルティマニア買っとこうかな」と思ったことがある人も多いのではないでしょうか。

この“究極(アルティメット)”の攻略本は、名前負けしないその見た目の厚さ、手に取ったときの重みで「こんなに重くて分厚い本ならきっとまだまだやりこむことがたくさんありそうだからアルティマニア買う!」と思わせるに十分で、実際にゲームの全てが詰まっていました。そして、やり込み要素が増えれば増えるほど、本の重みと厚みが増していくのは必然でした。

さて、シリーズの攻略本が同タイトルになった由来には、シリーズを通して登場する魔法「アルテマ」の存在があると思います。この「アルティマニア」という魔法、これまで述べてきたRPGの「物語」にとっては大変に危険な究極魔法だったのです。

日本のRPGにおいて、かつて「究極」だったのは、物語とそれに伴う「ラスボス・クリア・エンディング」といったものでした。RPGは「優しさ」や「感動」といったキーワードをもとに、豪華なCGと声優を使ってそこに力を注いできたはずでした。

しかし究極をうたう攻略本において、こうして彩られてきたメインストーリーはむしろ脇役で、サブイベントに関する記述が需要の多くをしめていきます。いつのまにか、多くのサブイベントをこなしてゲームを遊び尽くすことこそが、究極になってしまっていたのです。ラスボスを倒し物語を終えることではなく、まるでデータベースのようにゲームの全てに触れることで、ゲームは究極といえる領域にたどり着くのです。

メインの物語よりもサブのイベントを充実させた方が、遊び尽くすという欲求に応えるには正しい。プレイヤーの誰もが触れるメインの物語を充実させても「尽くす(全うする、その事柄の極にまで達する)」ことにはならないからです。ゲーム世界のあらゆることを記述することで、プレイヤーはその全てを楽しむことができるようになりました。一方で、その徹底ぶりで、世界の全ては可視化され、世界から余白は失われました。余白がないことは、逆に世界を狭めてしまうことになるかもしれません。この世界には私が知らないことがまだある、という想像の余地がある方が、世界は拡張していくからです。

この流れは、インターネットの普及を通じ、攻略サイトやWikiなどに受け継がれていきます。ひとりのプレイヤーではなしえない集合知による自身の知らない情報の開示、メインストーリーとサブコンテンツの同列化はこれまでゲームが一方的に与えてきた物語を超え、その世界を解体していくのです。

■「セカイ化」する物語

    セカイ系(セカイけい、世界系)とは、アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルなど、日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型の一つである。(Wikipedia)

「セカイ系」についての具体的な説明はここでは避けますが、ごく簡単に書くと「世界を『きみとぼく/社会領域/世界の危機』という3つの領域にわけたとき、その中間領域である社会をほとんど描かない物語」といえるでしょうか。「自分語りの激しさ」「語り手の“世界”が文字通りの世界と等号」といった特徴も持っています。『新世紀エヴァンゲリオン』以降、様々なジャンルで現れるようになったといわれるこの形は、とりわけ2000年代のライトノベルで注目されたと思っています。その形が1997年の『FF7』以降、物語の中核として取り入れられていきました(なお、これはFFに限った話ではありません)。

この言葉をRPGの典型にあてはめて簡単に説明すると「勇者/王様/魔王」というそれぞれの領域から、王様がいなくなった物語、となります。ただし、どこぞの村の若者を「勇者」として承認するのは「王様」の役目であり、それがあって初めて勇者は勇者になり、「魔王」を倒しにいくことができます。

では王様がいない世界で、勇者(ぼく)はどのように魔王(世界の危機)と関わりを持てばいいのか? その方法のひとつが、主人公のアイデンティティと世界の危機を導くキャラクターを密接な関係にすることでした。『FF7』以降「きみとぼく(ヒロインと主人公)」と「世界の危機(重要な敵キャラ)」は緊密な関係になっていき、「ぼく」の実存における葛藤は「世界の危機」をもたらす敵キャラによってもたらされていきます。

『FF7』から『FF10』までの各作品での関係性は以下の通り。これら4作品をFFの「セカイ系四部作」と呼ぶことにします。クラウドやスコールがあんな斜に構えた性格なのは、こうした物語の型のせいもありそうです……。そして(その反動としての)ジタンとティーダの明るさも!

    FFVII: クラウドとエアリス/セフィロス
    FFVIII: スコールとリノア/アルティミシア
    FFIX: ジタンとガーネット/クジャ
    FFX:ティーダとユウナ/ジェクト
    (作品名:ぼくときみ/世界の危機)

「セカイ系作品においては、世界の命運は主にヒロインの少女に担わされる(同)」点はいずれも共通しています。ここで社会領域は完全に消滅しているわけではなく、主人公が戦いにいくための動機となっていることがありますが、物語の途中から、その中間領域は徐々に摩滅していきます。『FF9』において「ヒロインが王女」というのはいかにも社会的ですが、ガーネットがダガーと名乗り、ジタンが自らの出生に気づくとき、社会領域は消えていきます。

7以前のFFでは「光の4戦士」をはじめとして、名もなき勇者と同様「選ばれしもの」が主人公になっていることが多く(それを承認するのは王様でなくクリスタルなど超自然的な力ではありましたが)、その選ばれし戦士たちが「選ばれた」ことを理由に、自分たちとは縁もゆかりもない世界の危機に立ち向かう、というものでした。そしてこれは一般的なRPGのひとつの形でもありました。

『FF7』以降はそれが変容し、むしろ主人公を(プレイヤーキャラクターとしての)主人公たらしめるのは「世界の危機」の役割となった、という言い方もできるかもしれません。ボスがジェクトだからこそ主人公はティーダであり、それ以外の誰も他者によって選ばれることは不可能なのです。

これらの作品は、世界の危機という大きな物語を描きつつ、主人公の内面に関わる個人的な物語を描くというRPGの一つの目標を、効果的かつ効率よく達成することにもなったのです。

《Kako》

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