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【JRPGの行方】第9回 JRPGを超えしもの

これまでRPGについていろいろ書いてきましたが。最後にJRPGはどうあるべきか、などとおこがましいことは言えません。ただ、ひとつのキーワードを用いて、個人的な期待を挙げてみたいと思います。

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【JRPGの行方】第9回 JRPGを超えしもの
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一方で、ファンタジー世界ではおなじみのドラゴンやキメラ、ペガサスやユニコーン、ケンタウロスにケルベロス、キメラやグリフォンといった存在は、わたしたちが「本物」を知っているトカゲや馬などの動物から類推することで、精細になればなるほど「写実的」になっている、と判断できます。現実にある馬の毛並みやトカゲの皮膚といったことを再現することで、ペガサスやドラゴンがリアルになった、と感じることができます。それは人間を描く際にもいえ、海外のRPGが「リアル」を目指すとき、それは「写実的=現実的」な世界であることが多いはずです。

    ハイパーリアル【hyperreal】
    1)虚構でありながら,本物にきわめて近い実在性をもっていること。フランスの社会学者ボードリヤールは,現代社会の特性としている。
    2)写真のようにリアルに描く絵画の手法。(三省堂 大辞林)

FFのキャラクターたちは、「本物」自体が虚構でありながら、「(現実を写しているはずの)写真」のようなリアルを追求している、という希有な例ではないでしょうか。これは海外RPGや他の日本のRPGでは見られないものです。フォトリアルなのに、その元となるフォトが存在しない。それは「キャラ」と「人間」や、「二次元」と「三次元」といった区別を超えた異質な存在ともいえます。

海外作品がファンタジーやSF、ポストアポカリプスという世界観において目指す「リアル」は、写実的で現実的(ここでいう現実的とは、本物のような実在性を備えているという意味)。FF15になってさらに現代的な世界観になったFFは、写実的なのに虚構な、文字通りのハイパーリアルです。

FF15を揶揄する言葉として「大草原でホスト4人が高級車で疾走うんぬん」というものがあります。もちろん彼らはホストではありませんが、ホストと呼ばれてしまう。これはFF15が持つ混濁した「リアル」が要因となっているのではないでしょうか。現代っぽいのに現代じゃない、リアルなはずなのにリアルじゃない。ハイパーリアルっぽさを持ちながら、その実は「シュール」とでも呼べるような意味不明さ。得体の知れなさがここにはあります。

実はこの「得体の知れなさ」こそが、JRPGがJRPGを超えるために必要なのではないか、と考えます。

FF15の「リアル」は、グラフィックの精細さによって後進性を排除しながら、虚構なのに写実的、現代なのにファンタジー、人間なのに人間じゃない、という得体のしれなさによって、安易な類型化を阻む力を備えている、と言えるのではないでしょうか。「なんだかよく分からんがすごいかもしれない」存在であること。JRPGらしい異質さを抱えながら高みを目指す。わたしはこれをJRPGの「限界突破」と表現したいと思います。そしてそれこそが、JRPGが自らを超えるために必要だと思っています。

ここまで挙げた3つの「リアル」が、日本のRPGが「JRPG」でありながらそれをアップグレードしていくためのキーワードだ、というのが期待も込めた個人的な考えです。

■あとがき

ここまで「JRPG」という言葉を軸に、日本のRPGがどういった特徴を持ち、どういった変化をしてきたかを自分なりに書いてきました。アクションやパズルなど、他のジャンルに比べると器が大きいはずのRPG。なんでもRPGになりうるはずが、爛熟していく中で膠着化、定型化していった結果生まれたのが「JRPG」だと思います。

わたしは広島県の出身なのですが、この連載を進めるにあたり、「JRPG」という言葉に対して「広島風お好み焼き」と同じ違和感を持つようになってきました。わたしにとって「お好み焼き」といえば広島風お好み焼きのことでしたが、それをわざわざ「広島風お好み焼き」とは言わない。“広島風”とついただけで、なんだかこれは「お好み焼きじゃないよ」と言われているような気がしてしまうのです(これは関西でも同じかもしれません)。

JRPGの“J”も同じで、Jがつくことで、これは「RPGじゃなく“異質な”日本のRPG」のことなんだよ、と言われている気がするのです。だからこそ、JRPGであることを良しとしているのを見かけると、県内で「広島風!」と喧伝しているお好み焼きやと同じような、一抹の寂しさを感じてしまうのです。

第一回目で紹介した『僕たちのゲーム史』のあとがきで、さやわか氏はゲームの語り方として「懐古(好きだったゲームについて思い出を語る)」「印象(自身の関心と経験に沿った理論からゲームを説明する)」「産業(売り上げや業界動向に注目する)」「原理(基礎理論を軸にして話の裾野を広げる)」の4つを挙げています。

わたしはこの中でも「産業」を「技術」と「商業」に分けてみたいと思います。「技術」は、○○のスペックがどうとか、フレームレートがどうとか、解像度がどうとか、いう語り方です。「商業」は、○○は何万本を突破、○○は○○だから売れない、○○は値下げが必要だ、といった語り方です。この二つは車の両輪のようにどちらかを欠くことのできないもので、「技術」を根拠に「商業」の語りをしたり、「技術」の語りをして「商業」を展望する、といったことがあります。個人的にゲームというジャンルにおける「産業」的な語り方は、他のジャンルに比べると非常に多い、と感じています。こうした語り方はユーザーレベルでも多く見られます。

今回の連載は、この「産業」の語り方を徹底的に排除した中で、何か書けないかという試みのもとで始まりました。意味不明だったり説明不足だったりすることもあったと思いますが、なにとぞご容赦ください。最終的には、ゲームにおける語り全体で、産業とそれ以外のバランスがとれていくことが個人的な理想だったりします。そして、今後も日本・海外問わず、ワクワクするようなRPGが出てくることを楽しみにしながら、この稿を終えたいと思います!

【参考文献・サイト】
『僕たちのゲーム史』(さやわか、星海社新書)
『オリエンタリズム』(エドワード・W・サイード、平凡社)
『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(伊藤剛、NTT出版)
『テレビゲーム文化論』(桝山寛、講談社現代新書)
「TOP 10 WAYS TO FIX JRPGS」(IGN)
「BioWare co-founder: JRPGs suffer from 'lack of evolution’」(Destructoid)
《Kako》
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