2026年9月22日と23日、東京日仏学院にて「The Tenth Mosaic」が開かれました。
欧米では第十の芸術とも呼ばれるようになったゲームをテーマに、さまざまなクリエイターがコンテンツを展開するイベント。
こちらで『アローン・イン・ザ・ダーク』のフレデリック・レイナル氏、『SIREN』や『SILENT HILL』の外山圭一郎氏、『零』の柴田誠氏、『クロックタワー』の河野一二三氏による対談が行われたので、レポートします。

ホラーゲームを作るに至った、それぞれの原点
まずは、それぞれがホラーゲームを手がけることになった経緯について語られました。
レイナル氏は、1985年に父親が経営する店でビデオクラブとPCコーナーを半分ずつ扱うようになったことで、幼い頃からビデオとPCの両方に触れられる環境にあったと振り返ります。1988年には自らブロック崩しのゲーム『ポップコーン』を制作し、1989年にはインフォグラムに入社してグラフィックデザイナーとして働き始めました。
大きな転機となったのは1991年。『キューブ』という3Dゲームに触れたことをきっかけに、ジョージ・A・ロメロのゾンビ映画を3Dで表現したいと考えるようになったといいます。そこから『アローン・イン・ザ・ダーク』のアイデアが生まれていったそうです。『アローン・イン・ザ・ダーク』は翌年、1992年に発売します。

外山氏はKONAMIに入社し、『サイレントヒル』や『SIREN』を制作。当時は『バイオハザード』を中心としたサバイバルホラーが存在するなか、「同じことをやっていても太刀打ちできない」と考え、別の方向性を模索していたと説明しました。また、ビデオ店員のアルバイト経験も大きかったといいます。

柴田氏は、PS2の時代に入ったことで表現力が大きく向上したことに可能性を感じ、「この表現力なら、誰も見たことのないホラーが作れる」と考えたことが『零』の出発点だったと語りました。古い日本家屋のなかを探索し、敵として幽霊が登場するゲームを構想したことから、シリーズの原型が生まれたといいます。

河野氏は、中学生の頃から楳図かずお氏や古賀新一氏のホラー漫画を好んでいたことを紹介。大学卒業後にヒューマンへ入り、そこで『クロックタワー』の企画を立ち上げた経緯を語りました。

「敵を倒す」ことから離れられる、ホラーゲームの自由
続いて話題は、ホラーゲームそのものの魅力へと移ります。
レイナル氏はもともとホラー映画が好きで、その中でもゾンビは「いくら殺してもいい」「遅いし、変なやつら」と、ゲームに取り入れやすい存在だったと説明しました。
また、1970~80年代のイタリアンホラーにも強く影響を受けたといいます。若者たちが館や森に閉じ込められ、最後にひとりだけが生き残るような作品が多く、そこからサバイバル・脱出という考え方につながっていったそうです。
『アローン・イン・ザ・ダーク』についても、「とにかくサバイバル」であり、まずはその場から脱出しなければならないゲームだったと説明。映画「悪魔の棲む家」のポスターに書かれていた「とにかく脱出しろ」という煽り文句からもインスピレーションを受けたことを明かしました。

河野氏もホラーゲームの大きな魅力として、「既存のゲームフォーマットを壊せること」を挙げます。一般的なゲームでは敵をどう倒すかが重要で、主人公も最強の存在として描かれがちですが、ホラーではそうした前提を崩せると説明しました。
ここでも「悪魔の棲む家」への愛着に触れ、特にポスターに描かれた家の窓がオレンジ色に光っているところが好きだと話しました。

柴田氏は、ホラーとゲームは「死が近い」という点で相性が良いはずだと説明。元来、ゲームにはゲームオーバーがあるため、ホラーとの親和性が高いと語りました。
一方で、本人はもともと霊的な存在をたまに見ることがあり、映画でまで怖いものを見たくなかったそうです。それでも先輩に誘われてホラー映画を見たことで意外な面白さに気づき、いわゆる大作映画にはない魅力を感じるようになったと振り返りました。
外山氏は、エンターテインメントは本来、登場人物への共感によって気持ちよさを生み出すものだとしながら、ホラーはむしろその逆にあると指摘します。感情移入した先で悲惨な出来事が起きるからこそ、人間の本能的な部分が刺激されるのであり、「良くないことが起きた話を知りたい」という欲求が人間にはあるのではないかと語りました。
『アローン・イン・ザ・ダーク』が示したホラーゲームの間
外山氏、柴田氏、河野氏にとって『アローン・イン・ザ・ダーク』はホラーゲームの歴史を語るうえで欠かせない作品でもありました。
柴田氏は、先輩から「すごいゲームが出た」と勧められて『アローン・イン・ザ・ダーク』を見た際に「空間とカメラワークがある」ことに感動したと回想します。恐怖が訪れるタイミングや、間までコントロールされており、それが第1作の段階ですでに実現されていたことに衝撃を受けたそうです。
その経験は『零』にもつながり、幽霊が出そうな場所を先に作り「幽霊が出る前の雰囲気」をゲーム内で再現しようと考えたと説明しました。

外山氏にとっても『アローン・イン・ザ・ダーク』は特別な作品でした。自分がゲーム業界に入る直前に登場した作品でしたが、当時の日本ではコンソールゲームが中心で、海外のPCゲームを実際に遊べる環境はほとんどなかったそうです。
そのため、海外ゲームメディアの記事や雑誌に掲載された画面写真から作品を想像していたといいます。それでも、当時としては考えられないほど緻密な画面に衝撃を受けて、「自分の中では伝説のゲーム」として長く記憶に残っていたと語りました。

柴田氏は、ホラーとしては「ドアを開けるのが怖い」というところまでプレイヤーを持っていければ成功だと表現。単純なジャンプスケアよりも「何かいるんじゃないか」と思わせることが重要であり、それこそが非常に高度なテクニックだったと評価しました。
レイナル氏は、そこで河野氏の『クロックタワー』にも触れ「シザーマンのハサミの音はとても大事」とコメント。
また、『アローン・イン・ザ・ダーク』はナレーションによって本来ならプレイヤー自身が体験する部分を補っているため「ちょっとズルをしている」と笑いながら説明。しかし最終的には、プレイヤー自身が役のなかに入っていくことこそが重要で「ゲームプレイヤーの経験が一番大事だ」と語りました。
カメラ、霧、背景――「見えない空間」が恐怖を生む
ホラーゲームにおける恐怖の構築については、カメラの使い方が重要なテーマとして取り上げられました。
柴田氏は、『アローン・イン・ザ・ダーク』のカット割りされた固定カメラが、映画的な画面のなかをプレイヤーが動くという体験を生み出していたと分析します。
特に印象的なのは、館そのものが主役になっていた点です。キャラクターはあくまでその空間を動く存在であり、「背景のほうが主役」になることで、人間の弱さや、上位の存在から見られているような感覚が生まれていたと語りました。
現在のゲーム業界で主流になっているプレイヤーの後方からカメラが追従する形式についても言及。
『零』では固定カメラと後方カメラの両方を試しており、『零 ~紅い蝶~ REMAKE』では後方カメラを採用したことで、また違った怖さが生まれたと説明します。後方カメラではキャラクターそのものが主役になるため、同じホラーでも恐怖の性質が変わるというわけです。

これに対して外山氏は、恐怖の本質には「緩急」があると指摘しました。
映画とゲームの違いとして、映画は監督の意図した順番で進みますが、ゲームではプレイヤーが動かなければ何も起こらない点を挙げます。そのため、プレイヤーに委ねられた結果として、緊張を強いられる時間が長く生まれると説明。「そのシチュエーションにいるのに、足を動かせないような感覚」はゲームならではの怖さだと語りました。
そしてカメラについては、『アローン・イン・ザ・ダーク』から『バイオハザード』へと受け継がれた「固定カメラから見えないところにも空間がある」という仕組みを高く評価します。見えない空間を想像させることこそ、プレイヤーの想像力を刺激する発明だったと振り返ります。
外山氏自身は、それを別の方法で実現したと説明。『サイレントヒル』ではポリゴンで背景を作りながら、霧によって「見えないところ」を生み出しました。空間そのものは存在するのに、認知できない。その構造は『アローン・イン・ザ・ダーク』から受け継いだものなのです。

河野氏も、カメラによって「どこまで見せるか」「どこまで制限するか」は表裏一体だと話します。FPS視点なら極端に視界を制限でき、TPSならより広い範囲を見せられると整理しました。
初代『クロックタワー』では、横スクロールの広い画面を利用し、キャラクターは気づいていないのにプレイヤーだけが気づいている恐怖を作ったと振り返りました。

主人公は男性か女性か――当時ならではの発想
この流れから、当時のホラーゲームにおける主人公の性別についても話題が及びました。
河野氏は、『アローン・イン・ザ・ダーク』『サイレントヒル』が男性主人公、『零』『クロックタワー』が女性主人公だったことを取り上げ、当時のジェンダー感覚から見た違いについて質問しました。
レイナル氏によると、当初『アローン・イン・ザ・ダーク』は男女を選択できる形を考えていたそうです。主人公はあくまで「普通の人間」にしたかったと説明し、当時は男性のお客さんがゲームを遊ぶことが多かったため、女性にも遊んでもらう目的で女性主人公を考えたこともあったといいます。
しかし、当時の感覚として「女性は戦うことが好きではないのでは?」と考えたことや、グラフィック上の制約などから、最終的には男性主人公に絞ったと振り返りました。

外山氏は初代『サイレントヒル』について、モダンホラーという作品の方向性を考えたと説明。女性を主人公にするとそこに特別な意味が生まれてしまうため、あえて「ただの人」にしたかったそうです。その結果として、どこにでもいる中年男性を主人公にしたと語りました。
柴田氏は、『零』ではテーマから主人公を決めていたと説明。たとえばラスボスが男性なら、同じ性別にすることで、相手の心情を理解できます。つまり、物語との関係性から性別を選んでいたといいます。

河野氏は、当時は現在ほど女性キャラクターが自由に戦うイメージが一般的ではなかったと振り返り、積極的に戦って探索するなら男性、消極的に問題を解決するなら女性という感覚があったと説明しました。
この話題では、柴田氏が「『クロックタワー』のシザーマンにはそもそも抵抗できないですからね」と補足します。さらに河野氏が知人のホラー監督から「おっさんの悲鳴なんて聞きたくない」と言われたエピソードを披露すると、会場は笑いに包まれました。
柴田氏は『零』について、ラスボスが幽霊だからこそ主人公のフィジカルが強くても意味がなく、最後には主人公がラスボスに共感することが重要なので女性を選んだとも語っていました。
「幽霊が出そうな場所」を作る――舞台そのものが主役に
舞台設定についても、それぞれの考え方が語られました。
外山氏は、キャラクターより先にセッティングから考えることが多いと説明し、とくに村や町を舞台にすることが多いと語ります。
何が起こるのか、その必然性は環境によって決まるといい、主人公はプレイヤーの分身であると同時に、その場所に迷い込んだストレンジャーでもあると説明。そこで何を感じ、何に興味を惹かれるのかという体験を大切にしているそうです。
『サイレントヒル』がモダンホラーだったのに対し、『SIREN』では村の歴史を知るほどに抜け出せなくなる、傍観者としての感覚を作ったと紹介。ホラーに限らず、さまざまな作品で「その町で何を感じるのか」を意識していると語りました。

柴田氏は、『零』では「幽霊が出そうなところで幽霊が出る」と説明。日常生活のなかで感じる「ここなら幽霊が出そう」という場所を集め、それらを組み合わせて一軒の家を作るような感覚で舞台を構築していると語ります。
さらに廃墟のような、単純に汚れているだけの空間では怖さにつながらないと指摘しました。死んだように見える場所に生活の痕跡が残っていることで、こんなところにさっきまで人がいた気がする感覚こそが嫌な怖さにつながると説明しました。
河野氏は、舞台そのものにプレイングを仕込めるかどうかが重要だと説明。ひとつのシチュエーションのなかにどれだけギミックを入れられるかがポイントだと語ります。
一方で、これからのホラーゲームについては、すでにさまざまな表現がやり尽くされているため難しさもあると指摘します。だからこそ、まったく新しい舞台を思いつければ、それだけで勝ちなのではないかと語りました。

ゲームだからこそ残る「あの場所にいた」という感覚
ゲーム以外の媒体でのものづくりについても、それぞれの経験が紹介されました。
レイナル氏はもともとものづくりが好きで、自らおもちゃを作ることも多かったと説明。1990年代のゲーム制作も、振り返ってみればおもちゃを作るような感覚だったと語ります。
最近はデジタル化が進んでいる一方、一般的なコントローラーを使うだけではなく、自分自身がプレイすることそのものを含めて楽しめるものを作りたいと考えているそうです。現在は再びレトロゲームに取り組んでおり、「感覚的に感じるもの」が大切だと話しました。
外山氏は大学時代にビデオアートを制作していた経験を紹介。映像を抽象化することで、絵や立体、プログラムは大してできなかった自分でも制作できたと笑いながら振り返ります。自分の強みは「抽象化して概念にすること」だったため、ビデオゲームという媒体は天職だったと語りました。

柴田氏もゲームにこだわっており、特に『アローン・イン・ザ・ダーク』をプレイしたときに残った「あの場所にいた」という感覚を紹介。プレイ中以上に、ゲームを終えたあとにこそ、さっきまで居た場所がよりリアルに感じられることがホラーゲームの良さだと語りました。
河野氏は誰にも言わずに行っていた実写ドラマの制作経験を明かし、媒体ごとの表現の違いについて語ります。実写では俳優が演じることで伝わる情報量が非常に多く、ゲームのセリフとは比較にならないほどだったと振り返り、ゲームと実写の両方にそれぞれの面白さがあると語りました。
それぞれが描く、これからのホラーゲーム
今後の制作については、それぞれが異なる方向性を示しました。
レイナル氏は、現在メガドライブで動くゲームを制作していると発表。妻がグラフィックを担当し、若い頃に感じていた楽しさを再現しているといいます。
AAAタイトルを作るよりも楽しいと笑いながら語り「私はもう老いているのかもしれません」ともコメントしました。
ただしAAAを批判しているわけではなく、自分が求めているものはメガドライブの時代のゲームにあったと気づいたそうです。当時のゲームは「おもちゃ」であり「電子工学」でもあったと振り返ります。
さらに、当時は誰も「何を作ればいいのか」がわからなかったことが幸運だったと語りますが、インディーゲームにはまだ自由があるとも指摘します。「何にせよ、クレイジーにやりたい」と意欲を見せました。

これには外山氏も「僕もメガドライブやりたいですよ」と応じ、会場の笑いを誘いました。
一方で外山氏は、独立してからまだ一本しか作品を作っていないことに触れ、現在のメンバーとともにホラーの足場を残していくことが重要だと語りました。
柴田氏は、今年3月に『零 ~紅い蝶~ REMAKE』を発売したことを報告。現時点では次の作品について話せることはないとしつつ、現在の段階ではまだ次のことを考えていないと説明しました。

河野氏は、すでに3本ほど作りたい企画があることを明かし、久しぶりに東京ゲームショウで熱い商談もあったと報告。「新作を待っていてください」と今後の活動に意欲を示しました。
「怖さ」の限界――どこまでリアルにするのか
ホラー表現の限界については、かなり踏み込んだ話が展開されました。
レイナル氏は『アローン・イン・ザ・ダーク』以外にも、過去に子どもを狙うシリアルキラーをテーマにした作品『2Dark』を制作したと紹介しました。

恐怖を極限まで突き詰めるなら、子どもへの虐殺ほど恐ろしいものはないと考えたそうですが、制作を進めるなかで「これは止めるべきではないか」と何度も思ったと告白。
実際の殺人はゾンビホラーよりも恐ろしく、子どもを殺す表現によって恐怖を強めることはできても、そこまで描いていいのかという疑問が残ったと振り返りました。
真実に近い映像にしてしまうとゲームとして成立しなかったといい、本という媒体なら成立するかもしれないが、実際に起きる事件はゲームとして遊ぶものにはならないと語りました。
柴田氏は、ホラーは「不快感を打破するもの」だと説明。心霊ホラーを作り続けていると、次第に見えない世界に近づいていくような感覚があるといいます。
それは貴重な経験である一方、「帰ってこられなくなる」と表現。もし同じような経験をしたホラークリエイターがいたら、自分に連絡してくれれば脱出法を教えると冗談交じりに語りました。

外山氏は、作ろうと思えば表現できるものでも、それを世に出せるかどうかは別の問題だと指摘。一方で、社会的な制限があるからこそ新しいアイデアが生まれることもあり、昔は許容されていたが現在では難しい表現も多いと語りました。

河野氏も、内臓やスプラッター、人体破損といった表現には自身のなかでリミットがあると説明。映画『テリファー』でも、グロテスクに見えるがあえて「作り物感」を残しており、ゲームはさらにリアルに表現できてしまうため、そこには線引きが必要だと語りました。
クリエイターは何を見て、何に恐怖を感じるのか
普段どのようなものから刺激を受けているのかという話では、それぞれの個性がさらに浮かび上がりました。
レイナル氏は、やはりものづくりが好きだと説明。電子工学やおもちゃへの興味は現在も変わらず、締切があっても別のものを作らないと気が済まないと語りました。
柴田氏はドキュメンタリーを観たり読んだりすることが趣味だと紹介。特に、その時代だけに存在する独自のルールに興味があり、村のなかだけに存在するような法則を感じ取りたいと語りました。
河野氏は、日本各地のミステリースポットを探ることが好きだといいます。都内にもすり鉢状に掘られた井戸が2カ所あり、伊藤潤二氏の『うずまき』のような雰囲気があるとして、ぜひ見てほしいと紹介しました。

インディーホラーから感じる「荒削りな切り口」
インディーホラーゲームについては、4人の記憶力をめぐるユーモラスなやり取りもありました。
レイナル氏は普段あまりゲームを遊ばないとしつつ、重要なのは「好奇心を持つこと」だと説明。ひとつのジャンルにマニアックになりすぎず、もっと知られていないものにも触れてほしいと若い世代に向けて語りました。
河野氏は、海底で巨大な魚に襲われるインディーゲームが面白かったけれどタイトルが思い出せず、柴田氏も不穏な文字を入力するタイピングゲームを勧めますが名前が出てこない場面があり、最後には河野氏が「ジジイだらけだ」と冗談を飛ばしました。
※筆者注……おそらく『Subnautica』と『Dyping Escape』
外山氏は、インディーゲームについて「荒削りだけど切り口がある作品」が多いと評価。最近では『No Players Online』が印象に残った作品として挙げ、「絶対に起こり得ないけれど、センスのいい悪夢」みたいな作品だと語りました。

4人が考える「もっとも怖いもの」
最後に、「もっとも怖いホラージャンルは何か」という問いが投げかけられました。
レイナル氏は、やはり実世界を基にしたものが最も怖いのではないかと回答。どんなホラーよりも現実のほうが恐ろしく、本物の人間が行う無残な行為こそが最も恐ろしいと語りました。
外山氏は、人間にとって最大の脅威は「自分の死」だと説明。死を実際に体験したことがないからこそ、それは未知への好奇心にもつながっており、人間はそこに惹きつけられるのだと語ります。「死は最大のテーマ」という言葉で、ホラーの根源について考えを示しました。

柴田氏は、恐怖を感じた先に「この場所、懐かしいな」「居心地がいいな」と思える瞬間があると語りました。恐怖と日常は地続きであり、すぐそばにあるものだからこそ、そうした感覚をゲームのなかで作りたいと説明しました。
河野氏は少し考えた末、最も怖いシチュエーションとして「高層ビルで働いているとき、飛び降りようとしている人と目が合うこと」を挙げました。
そして次点として挙げたのが「スキューバダイビング中に巨大なアコヤガイに挟まれ、酸素ボンベの残量が減っていく状況」です。
なぜそれを怖いと感じるのかを考えることで、ホラーゲームを作るうえでのヒントが見えてくるのではないかと語りました。
すると柴田氏が、目が合うシーンは『零』にもあると指摘。これに河野氏が「最悪だ(笑)」と返し、対談は最後まで和やかな笑いに包まれながら幕を閉じました。

今回の対談を通じて4人のクリエイターが語ったのは、ホラーゲームにおける「見せる」ことと「見せない」ことの重要性でした。
カメラによって視界を制限し、霧によって空間を覆い、舞台そのものに生活の痕跡を残し、音によって画面外の存在を想像させる。そうしたさまざまな工夫によって、プレイヤーは「見えていないもの」まで頭のなかで補完することになります。
ホラーゲームの歴史は、恐ろしいものをいかに見せるかだけではなく、「そこに何かがあるかもしれない」とプレイヤー自身に想像させる方法を模索してきた歴史でもあります。
長い歴史を持つホラーゲームは、これからも「見えないもの」をどう想像させるのかという挑戦を続けていくのでしょう。











