
「みんな大人になってからもどれだけゲームを続けていけるものなのかな」ゴールデンウィークで帰省する電車の中で、ふと地元の友達たちや家族を思い浮かべながらそんなことを考えてしまいました。みんな、“ある時まで”ゲームをやっていましたが、“ある時を境に”離れていったのです。
久しぶりに実家へ戻り、両親と食事をしながら最近の仕事について話していました。どこの家庭でも似ているものかも知れませんが、 “息子が何か書き物をして暮らしているようだが、詳しい仕事は知らない”状態です。僕も両親に「東京でライターをやっている」と言っていても、父も母も僕の書いたものをほとんど読んだことはありません。手掛けている仕事が専門的で伝わりにくいことも多く、僕が説明を端折ってしまうせいもあります。
しかしこの日は少々違い、僕が最近Game*Sparkに寄稿した仕事について話していました。「“RPGは大人しかクリアできない”と信じていたあの頃をSwitch Onlineの『スーパーチャイニーズワールド』で思い出す」のことです。
これは僕の幼少時代に体験したRPGの思い出を書いたテキストで、「自分の感覚では、親や知識人のような大人がビデオゲームを遊んでいた。大人がゲームを教えてくれる存在だった。でも、ある時期から全員がやめた」という内容です。
上の世代が映画や文学といった文化を教えてくれる、ということを5~6歳のころにある意味でゲームによって経験したんですが、「自分が成長してみたら文化を教えてくれた人間が軒並みその文化から離れていた」という経験もゲームによるものです。これがなかなかショックを受けたんですね。ゲームが多様になり、進歩し続けているのと反比例するように、子供のころから身近な大人や友達がゲームから離れてしまうということに。
これを何度か経験したことから、「ゲームは他の文化よりも “ある時からやめてしまう”何かがあるんだろうか?」と考えるようになりました。
ゲームメディアなので、当たり前にゲームを遊び続けている人に向けた情報が流れ続けているわけですが、僕は逆に「大人になるにつれて、ゲームをやめる瞬間、もしくはやめそうになる瞬間ってあるんだろうか?」という疑問について、友人や仕事仲間から話を聞いていました。やはり、映画や小説のように生涯ゲームに触れ続けてほしいですし、「ある時にふとやめたよ」って寂しいですから。
両親がゲームをやめたとき

「という感じで、最近の仕事で子供のころに『スーパーチャイニーズワールド』をやってたことを書いたのね。2人プレイで、おかんが先導してゲームを進めてくれたことが、自分にとってRPGの遊び方を教えてもらう形になっていたというか」
「ハジメ(筆者・葛西祝の名前)、そんなん書いてたんや。いやそうだったかなあ……でもこの画面見たことあるわあ、懐かしいわあ」
母にニンテンドースイッチで久しぶりに『スーパーチャイニーズワールド』をプレイしてもらいながら、そんな会話をしていました。
「たしか『スーパーチャイニーズ』シリーズで初めてRPGを知って『こんな面白いもんあるんか』と思ったなあ」そうして両親は王道の「ドラゴンクエスト」シリーズや「ファイナルファンタジー」シリーズに手を出すようになっていったのでした。
「あの頃は私もパパとRPGをめちゃめちゃやってたなあ。『ドラゴンクエスト2』をやってた頃、パパが仕事から帰ってきたら『ラーの鏡、あったで!』って報告してたりして」
父と母がファミコンで「ドラゴンクエスト」シリーズをやっていたことを懐かしく語っていました。僕はそれを後ろから眺めていたことをよく覚えています。
「でも、そんなに両親ふたりでハマっていたのに、ある時期からゲームをやらなくなるじゃない。あれって、なにかきっかけがあったの?」それとなく僕は聞いてみました。
「なんなんやろなあ、気が付いたらやらなくなったとしか言いようないなあ」
両親と話しながら、二人がどこでやめたのかについていろいろ考えていました。すぐに思いつくのは生活の変化です。僕が成長して、小学校や中学校に上がるタイミングでだんだん両親が遊んでいる頻度が減っていったのを思い出していました。
両親がゲームをやっていた思い出の最後は、父が『ファイナルファンタジーVll』をクリアしたあたりでしょうか。クラウド・ティファ・バレットのアバランチチームでセフィロスと戦っていた記憶があります。それを最後に父はまったくゲームに触れることがなくなりました。90年代の終わりのころです。
その頃はプレイステーションの世代が終わりに近づき、プレイステーション2に期待が集まるころで、僕自身は高校受験を控え、父も母も進学校に入学させるためにゲームを禁じる方向に進んでいる時期でした。
そのあたりから、80年代や90年代の終わりには活発にビデオゲームを取り上げていた知識人たちも、あまりゲームのことを口にしなくなっていった印象があります。「あの方々にとってビデオゲームはなんだったのだろう」と今でも考えています。
地元の友達がやめたとき

「とはいえすごくない?葛西の親、めちゃくちゃゲームやってる方じゃないの。うちは基本的に敬遠されがちだったから」LINEで小・中学校時代の友人たちと話したとき、そんな反応が返ってきて「あ、そうかもしれないな……」とは思いました。
友人たちも30代を折り返し、40代を迎えています。かつて小学校の頃は『スーパーマリオRPG』をどこまで進んだか話し合ったり、中学校の休み時間にて「シタン先生は剣を使うあたりで最強になるっぽいぜ」と『ゼノギアス』のネタバレを喰らったりした仲でした。
しかし、共に成長していくある時期から、友達との話題にビデオゲームが消えていきました。
僕は親世代が途中でゲームから離れたのは、親世代の問題かと思っていました。でも、友人たちもまた、年を取るにつれてゲームから離れていくのを見て、「大人になるにつれて、何がゲームから離れる原因にあるのかもしれない」と考え始めたのでした。
「ゲーム?高校3年くらいまでぽつぽつやってたかな。大学受験を機にやめちゃった」
「就職して、結婚したあとだとスマホのパズルゲームくらいしかやってないね」
友達や知り合いに「どのあたりでゲームをやめたのか?」を聞いたとき、やっぱり進学や結婚、出産のように生活が変わってしまうタイミングで離れる話がいくつか出てきました。「忙しいから、ゲーム実況動画を見ながら仕事してるとかあるね」といった話もあり、ゲームに興味を失ったわけではないが、やる時間が難しいという友人もいましたね。
考えてみれば、ビデオゲームは使う時間や空間が縛られるメディアでもあります。据え置きのコンソールやPCで遊ぶ場合、設置されている部屋で数時間は遊ぶことが要求されます。そうすると就職・結婚後、使える時間や体力が限られる中で、コストを捻出するのが難しくなりがち。あらためて、「満員電車でも遊べる」、「操作が片手で出来て簡単」なフィーチャーフォンやスマートフォンのソーシャルゲームは、大人がゲームを続ける上で多くの障害をクリアしたジャンルなんだなと思い知らされます。
もちろん、当の(コンソール中心の)ゲーム産業も歴史的に「大人になるとゲームをやめていく、離れていく」問題は昔から熟知しており、いくつか対策を打っていたのを思い出します。

たとえば任天堂がかつて2006年にWiiを立ち上げたとき、プレゼンで「ゲーム人口の拡大」を口にしていました。プレゼンはすでに20年近く前の内容ですが、ゲーム機を提供する当事者ならではのデータを元にした「大人になるとゲームをやめる瞬間」がまとまっていると言えるでしょう。余談ながら、コンソールやPCゲームを遊ぶ空間的コストの問題を解決するものとして、スイッチの携帯機能から今日のSteam Deckをはじめ、クラウドゲーミングのXbox Game Passがあるのかもしれない、とも思いました。
ただ今回はもう少し掘り下げてみて、「そもそも、当のゲーム関係者ですらも『もしかしたら自分はゲームやめるかもしれない』という瞬間に直面しているんじゃないか」とも考えてみました。そこで、ゲームライターから企業に勤める開発者の知人などに聞き取りを始めました。
当のゲームメディア関係者にも訪れる、ゲームをやめかける瞬間

人生の節目で環境が変わることなどが「ゲームを続けられるかどうか」に影響するなら、当のビデオゲームの関係者ももちろん無縁ではないはず。まず自分の友人のゲームライターからお話を伺ってみると、なかなかシビアな回答が返ってきました。ひとつ印象深いのは、体力の問題でした。
「いや、やっぱそれあるよ。特に年を取ると、集中力がしなびていく感覚がある。長時間かかるゲームがきつくなってきてる実感がある。ゲームクリアまで10時間を超えるタイトルになると『うっ』ってなるところもある」
「ここ数年はゲームをクリアしたり、もしくは継続してプレイできなくなってる。レトロゲームや最新作など、『ずっと気になっていたゲームをようやく遊べる!』となっても、起動して数十分遊んだら、次に起動するのが数ヶ月後なんてザラになっちゃって」
「大昔、出版社でゲーム関係の編集をしてた時は、会社を辞めた後は数年ゲームから離れてたな。たぶん過労だったと思うから、そういう意味では、今の方がまだうまくゲームと付き合えている気はする」
……これ、僕自身も経験がないとは言い切れないですね。 “ゲームは思ったより時間と空間と体力的なコストがかかるメディア”と先ほど書きましたが、加齢で元の体力が落ちてくるとゲームを継続して遊ぶのがなかなか大変になってきます。
一方で、Game*Sparkのタンクトップおじさん兼イードのゲーム・アニメメディア事業責任者の宮崎さんにもちょっとこの話題を振ってみると、仕事と家庭の大変な時期をすり抜けながらゲームを遊び続ける回答をもらいました。
「まぁ濃淡があって、子供の一人目が生まれた時が相当に厳しかったですが、ちょっと大きくなって落ち着いてきて多少一緒にゲームをやるようになるまでに5年くらい。さらに二人目でもう1サイクルに突入しましたが、その時は強くてニューゲーム感があり、けっこう片手間にゲームができるようになりました。
ただ、ストーリードリブンなRPGが(徹夜とか不可能になるので)一時期かなり辛かったですが、最近は『ゼンレスゾーンゼロ』もちゃんとやってたし、『Clair Obscur: Expedition 33』もやってるし、一応いけるっちゃいけます。ただ、マジで新しいことを覚えなきゃいけないゲームはかなり辛いのと、集中しないといけないゲームもかなり厳しいです。『Balatro』とか『Slay the Spire』とかは、そういう意味ではスマホでもできるしソロでいけるし最高です」
ゲーム開発者に到来する、「ゲームをやめかける瞬間」とは

メディア関係者がこうなら、実際に開発している人間はどうなのか?ちょっと知り合いのゲーム開発者に匿名でお話を伺ってみました。
なお、以下の意見はあくまで一部であり、ゲーム産業全体の意見を代表するものではないことを念頭に、お読みいただければ幸いです。
「やっぱり仕事が忙しくなるとインプットに使える時間が減るね。また、開発現場が炎上しかけてると、そのゲームのテストプレイで手一杯になっちゃう。そうなると、ちょっと『自由に使える時間でもゲームしたくねえな……ゲーム以外の映画とか音楽で気分転換してえな』ってなっちゃう」
「自分は仕事でゲーム作ってると、プライベートではあんまりやりたくなくなるタイプだな。最近は眼精疲労がひどくて、起動したけどそれでやめちゃうこともある」
「これ開発に関わってる人間ならではの問題だと思うんだけどさ……たとえばアクションゲーム開発中に別のアクションゲームを遊ぶとするじゃん?すると開発中のゲームのほうのキーアサインが染み付いてて、別のゲームを遊んだ時、キーを誤操作しまくる。それでモチベが下がってやめちゃう……ってこともある」
こんな風に、開発に時間を取られるゆえゲームをやめかける瞬間が訪れている、という話が集まりました。ここに先述の結婚や出産といった生活の変化が加わってくると、いよいよ遊ぶ時間が取りづらくなるのでしょう。
ここまで関係者の話を聞いていて、いちばん自分の実感に近いのは下記の意見でした。仕事や家庭で体力を削り、モチベーションを保ちにくい状態もありますが、仕事ではゲームがある状態に対しての一言です。
「だから『ゲームをやめそうになるかもしれない』というか『もうやめているかもしれない』というか。でも時々プレイはしているので、完全にやめたわけでもなく、なんとも中途半端な感じなんだ」
僕自身にも「ゲームをやめかける瞬間」が襲い掛かってくることも少なくないのですが、抵抗している結果「なんとも中途半端な感じ」になりやすいのがちょっときついですね。ライターがこんなことを言うのもあれですが、仕事に忙殺されてゲームをやりこめる時間がないフラストレーションはあるんです。
ゲームも日本の基幹産業として認められた時代に

こうした問題によって「大人になるとゲームをやめる瞬間」が多数存在するのでしょう。しかし最近の情勢を見ると「大人がゲームをやめそうになる」なんて言ってはいられない状況が生まれてきています。なにせ、いまは政府側がなんとゲーム開発の支援を進める事業を行っていますから。
昨年、首相官邸にて「コンテンツ産業官民協議会・映画戦略企画委員会合同開催」が開催。当時の首相を務めた岸田総理が参加し、日本の輸出産業として映画・アニメ・音楽・ゲーム・マンガを総括したコンテンツ産業を支援していくスタンスを明らかにしました。支援の背景は日本の主要な鉄鋼産業や半導体産業がいささか芳しくない状況のなか、数値の上でコンテンツ産業が数少ない成長産業として注目されたことです。
その流れで、最近は「創風」などインディーゲームクリエイターのゲーム開発を支援する事業が、いくつか目立つようになっているわけです。僕はここのところ、こうした政府側の支援事業について取材することが多いのですが、そこで思うのは「支援事業の関係者は、どれだけゲームをやってるのかな」ということだったりします。
やはりコンテンツを支援するからには、支援する対象の何が優れていて何がいいのか、というのは関係者がある程度は把握していてほしいところ。ですが、先述してきた「大人になるほどに、実はゲームを遊ぶのが困難」な環境があると、その支援対象についての理解はどこまでできているのだろうかとも思います。
あとは政府側がゲーム産業にも助力するよということでしたら、「まず香川県ネット・ゲーム依存症対策条例あたりをどうにかしてくれ」とも思います。ゲームをやめてしまうかもしれない環境を修正していってほしいです。
遊び続けたその先にあるものは
なんだか話が大きくなってきましたが、ゲームの価値が国家の経済活動としても大きな位置を占めてきている以上は、「大人こそゲームをもっと知っておくべき」という状況になってきているのは確かだな……と思っています。
だからこそ、「大人になったら途中でやめてしまう」のではなく、生涯に渡って遊び続けられる環境づくりがあればと思います。
「とりあえずハジメがいろいろ書き物の仕事しとるのはよくわかった。ところで、これ知ってる?」 ん?おかんが何かを持ってきている?

アナログゲームの『街コロ』?買ったんだ。 ああ、知ってるよ。昔、Game*Sparkでもビデオゲーム版の『みんなで街コロ』をレポートした記事を書いたことはあったけど。
「ああ、さすがやね。最近こういうのも買ったんやけどわかる?」おお?いろいろ買って……る?あれ?いやちょっとわからんゲームもある……?

「最近はこういうのにハマっとって、パパと遊んどるんや」えええ!?「まだあるで」

!?

!?
「ハジメなら知っとるやろ」い、いや実はアナログゲームは専門外でして……。いつの間にこんな買い集めてたの!?「いや~定年後でいろいろ探してふらふら買ってしまって。ここんとこは『Warhammer』もちょっとやっとるわ。ようわからんけど」えええ!?
「とりあえずハジメちょっとゲームやってくれんか?3人以上じゃないと面白くないのが多くて」

……というわけで、僕の両親はビデオゲームはやめていたかもしれないですが、代わりにアナログゲームを集め、遊び続ける人になっていたのでした。
「このゲームなんてドイツで大賞を取ったやつだよ」まさかこの年齢になって、両親からアナログゲームについて教えられることになるとは……。びっくりしたとともに、子供の頃『スーパーチャイニーズワールド』でRPGの楽しさを教えてもらったことを思い出したのは確かです。
生涯ゲームを遊び続けるのは、もしかしたら大変かもしれない。それでも触れ続けていきたいですね。ゲームは常に変化を続けていくメディアであり、何十年も遊び続けたその先に何があるのかを見届けたいです。
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