
ようこそベガスへ、ようこそNew Vegasへ!
―『Fallout : New Vegas』日本語版家庭用パッケージ記載のキャッチコピー
銃器哲学とは、ゲームやフィクション作品における銃器の描写を、単なる戦闘ツールとしてではなく、その世界の思想やキャラクターの内面を映し出す装置として読み解き、「なぜその銃がそこにあるのか、どのように使われるのか、そしてプレイヤーの行動にどのような意味を付与するのか」といった問いを探求するものです。
前回寄稿させていただいた「【コラム】「誰かの銃」との物語:『Fallout 4』の銃器哲学」にて論じさせていただいたように、『Fallout 4』にて銃器は「誰かの記憶を引き継ぐ装置」として機能していました。拾い上げた武器に宿る前の持ち主の痕跡、カスタマイズを通じた対話、使用することで生まれる愛着。そこでは銃が「個人のアイデンティティ」を形成し、たとえ過ちを繰り返そうとも前進を続ける人類の、不屈の精神を証明可能な媒体として解釈することができたのです。
しかし、前作『Fallout:New Vegas』における銃器は、もう一段階上の次元で機能します。モハビ・ウェイストランドという舞台では、プレイヤーが扱う銃器は個人の記憶や「文明により生み出される存在」という要素を超えて「文明」を実現する存在になっているのです。
本稿では、『Fallout:New Vegas』の銃器描写が、いかにして文明の再構築という壮大かつ具体的なテーマと結びついているかを分析していきます。
同じくモハビ・ウェイストランドが舞台となる実写ドラマ版『フォールアウト』シーズン2の配信が近い今、なぜこのゲームの銃は「個人を超えて社会そのものに影響する存在になり得る」のか。作品の世界観にも触れつつ、その哲学に迫りたいと思います。
ニューベガスという舞台 ―― 文明の土台と部族の現実
ここで3以降の『Fallout』シリーズそれぞれの舞台と、ゲームとしての特徴を考えてみましょう。
シリーズの人気を爆発させた2008年発売の『Fallout 3』は、核ミサイルの集中攻撃を受けたかつての合衆国の首都、ワシントンD.C.の成れ果てであるキャピタル・ウェイストランドで「未来を成すゲーム」でした。シリーズでも随一と言える荒廃した風景を見せるキャピタルウェイストランドは、人口は少なく、経済も小さく、欲望と力があってもそれを叶えられる土壌すらありませんでした。そこは文字通り「ゼロから何かを築く」場所だったのです。
そんな地で主人公である《Vault101のアイツ》は、数奇な運命に翻弄されながらも、個人の意志で世界を変えていきました。

そしてこの視点で見ると、『Fallout 4』は「未来を選ぶゲーム」でした。舞台である連邦は、元学術都市ボストンらしく、核戦争後でも理性と学識が残り、土地が高度な技術を受け入れるかたちで成り立っていました。
インスティチュートという先進組織が存在し、技術的インフラは ── 歪んだ形ではあれ ── 機能していました。複数の勢力が対立する連邦で、プレイヤーキャラクターである《唯一の生存者》はどの未来を支持するかを選択しました。

では、2010年発売のスピンオフ作品『Fallout:New Vegas』ではどうだったのか?
この文脈ではそれは「文明を選ぶゲーム」でした。
ネバダ州南部 モハビ砂漠にある世界一の歓楽都市、ラスベガス。その西暦2281年の姿は、崩壊後のアメリカにあってなおも世界一、あるいは世界唯一の歓楽都市であり続けていました。ネオンが灯り、カジノが営業し、人々が娯楽と富を求めて集まる。この奇跡的な繁栄は、一人の男の執念によって守られてきました。一人の不死のビジネスマンが、核ミサイルの大半を迎撃し、ニューベガスを灰燼から守り抜いたのです。

さらにモハビ・ウェイストランドには、フーバーダムという巨大な水力発電所が存在します。ミード湖の豊かで清浄な水をたたえ、戦前から稼働を続けるこの施設は、文明の根幹であるエネルギーを安定供給しています。電力、清浄な水、インフラ。復興のための土台は、すべて揃っているのです。

しかし、だからといってモハビが完成された文明社会かといえば、そうではありません。
ニューベガス周辺の多くの地域は、いまだに後退した部族社会という前提にあります。核戦争による文化の断絶により発生した、グレート・カーンズやブーマーといった無視できない大部族、そしてニューベガスのカジノを運営する元部族たち。彼らは独自の文化と価値観を持ち、統一された社会システムには組み込まれていません。経済はある、技術もある、しかし確固たる文明社会には、一歩届いていないのです。


そしてこの「土台は整っているが、まだ完成していない」という状況こそが、二つの大勢力を引き寄せる原因でした。
西の旧カリフォルニア州地域からは、双頭の熊を旗印にする新カリフォルニア共和国(NCR)が、民主主義と法治国家の理念を掲げて領土拡大を進めています。

東の旧アリゾナ州地域からは牡牛をシンボルとするシーザー・リージョンが多数の部族を併合し、古代ローマ式の軍事国家の樹立を目指して侵攻しています。

そしてそれに伴いニューベガスそのものを支配するMr.ハウスは、自らの独裁的管理によって都市の繁栄を継続させようとしています。そしてまた独立派も誕生し、どの勢力にも従わず、モハビの人々による自治を求めています。

NCR・シーザーリージョン・Mr.ハウス・独立派。四つの異なる文明観が、ニューベガスとフーバーダムを巡って激しく対立する。この対立の中心に立たされるのが、プレイヤーが操る《運び屋》(Courier SIX)です。
運び屋は、配達業者としてとある重要貨物を運搬中に捕らえられ、頭を撃たれて墓地に埋められました。しかし奇跡的に生き延び、復讐と真相解明のためにニューベガスへ向かいます。その過程で、運び屋は四つの勢力と関わり、やがてモハビの運命を決定し、複雑なマルチエンディングシステムに反映される立場に立たされることになるのです。
運び屋には特別な出自も、英雄的な使命もありません。ただの配達人が、歴史の偶然によってモハビの運命を選択する役割を背負う。この構図が『Fallout:New Vegas』という物語の核心であり、この作品は「文明を選ぶゲーム」であると言えます。
そしてその選択は多くの場合、銃を手に取り、トリガーを引くという具体的な行為に集約されます。誰を撃ち、誰を生かすのか。どの旗の下で戦うのか。運び屋が手にする銃は、単に敵を倒すための道具ではなく「どの文明を選び、撃ち出すか」を決定する、文字通りの引き金なのです。

モハビの荒野と、銃で繋がる世界
モハビ・ウェイストランドは、暴力に満ちた土地です。しかしそれはでたらめに配置された暴力ではありません。『Fallout:New Vegas』が描くウェイストランドは、西部劇への深い敬意にも満ちています。
モハビには群れ成すデスクロー、悪逆のかぎりを尽くすレイダーたち、そして新たな文明を求める四つの勢力が存在します。 この世界で重要なのは、暴力が単なる破壊や断絶ではなく「連結」として機能しているという点です。19世紀アメリカ西部がそうであったように、モハビでも暴力は文明を「切り開く」ための避けられない媒介です。
そしてこれらすべては、モハビを「第二の西部開拓時代」として体感させます。 そして『Fallout:New Vegas』は、この世界観を登場銃器の選定にも明確に反映しています。
モハビにはレバーアクション式の銃が多種登場します。これらの銃は、19世紀アメリカ西部の象徴です。そして興味深いことに、このゲームではそれぞれのレバーアクションライフルに対応するリボルバーが用意されています。
序盤の.357マグナムリボルバーとカウボーイ・リピーター。中盤の.44マグナムリボルバーとトレイルカービン。そして終盤のハンティングリボルバーとブラッシュガン。これらの組み合わせは弾薬を共有する設計になっており、プレイスルーで一貫したカウボーイスタイルのロールプレイが可能です。






腰にリボルバー、手にレバーアクションライフル、ベルトにダイナマイト。この装備で荒野を旅することでもたらされるのは、単に敵を撃つことだけではありません。運び屋は「開拓者」としての役割をも演じる事ができるのです。荒野を旅し、危険を排除し、新しい秩序を打ち立てる。その過程で銃は、文明を「切り開く」ための道具になります。
一方で、『Fallout:New Vegas』には現代的な銃器も多数登場します。ゲーム開始後、多くの運び屋が最初に手にする9mmピストルは非常にモダンな外見をしており、中盤以降手に入るマークスマン・カービンは、開発時期である2010年前後の最先端ライフルカスタムを表現した非常に精密な武器です。



ゲーム終盤、高レベル帯になると敵が持ち出してきたり、ショップに並びだすアサルトカービンや対物ライフルもまた現代戦を象徴する銃器であり、シリーズでも随一の、選択可能な武器の多様性をもたらしています。


この対比が示しているのは、モハビが「過去と現在が混在する土地」だということです。西部開拓時代の銃と現代の銃が同じ荒野で使われる。これは単なる設定の都合ではなく、文明の再構築が「単純な復古ではない」ことを表現していると取れます。
旧世界の技術を活かしながら、新しい社会を作る。過去の失敗を繰り返さないために、現代の知識を活用する。モハビの銃器は、この「継承と創造の両立」をも象徴しているのです。
そして重要なのは、これらすべての銃が「暴力による連結」を可能にしているという点です。NCRとリージョンは戦争状態にありますが、その戦争こそが両者を結びつけています。ハウスとNCRは衝突こそしない段階で対立していますが、その対立が相互の存在を定義しています。
暴力は断絶ではなく、関係性の一形態です。撃ち合うことで、相手の存在を認識し、自分の立場を確立する。モハビの荒野では、銃声が「私はここにいる」「あなたもそこにいる」という存在の確認になっているのです。
運び屋が荒野を旅し、様々な人々と出会い、時には助け、時には撃つ。その行為の積み重ねが、モハビという土地に新しい物語を紡いでいきます。銃はその物語を「書く」ためのペンであり、暴力は新しい世界を「編集」するための手段なのです。
秩序ではなく、文明を撃ち出す銃
『Fallout:New Vegas』の世界では、どの勢力に属するかで使う銃の傾向が大きく変わります。しかしそれは単なる装備の違いではありません。銃の選択は「どのような文明を信じているか」という思想の表明として見て取れます。
新カリフォルニア共和国(NCR)は、旧世界の民主主義と法治国家を再現しようとする勢力です。彼らが主に使うのはサービスライフルや9mmサブマシンガンといった、20世紀のアメリカ軍を思わせる制式銃器です。これらの武器は大量に管理され、標準化され、兵士個人ではなく組織全体の力を象徴しています。
NCRの銃は「システムとしての暴力」を体現しているのです。兵士が持つ銃は取り替え可能で、誰が撃っても同じように機能します。それは個人の英雄性ではなく、組織の継続性と拡張性を重視する文明観の現れです。民主主義国家が持つ「制度化された力」、そして同時にその官僚的な硬直性も、NCRの銃器には刻まれています。
サービスライフルを手にしたNCR兵士は、単なる戦闘員ではありません。彼ら彼女らは「法と秩序の拡大」という大義の一部であり、その銃は旧世界の文明を復活させようとする野心の象徴です。
しかし、NCRの銃には疲弊も宿っています。過剰に拡大した領土、間延びした補給線により不足する物資、疲れた兵士たち。制式銃器の画一性は、個人の犠牲の上に成り立つシステムの冷たさをも映し出しています。



シーザー・リージョンは、古代ローマ帝国を模した軍事独裁国家です。興味深いことに彼らは銃器を基本的に軽視し、その使用を基本戦術に組み込んでいません。リージョンの戦士たちが主に使うのは、マチェーテやククリナイフ、投げ槍などの投擲武器といった原始的な武器です。
これは単なる演出ではありません。リージョンは古代ローマ帝国を倣った社会体制であるとは上述した通りですが、こと階級制度についてはリージョンは古代ギリシャのスパルタの様な、奴隷に一般労働を強いることで兵士/戦士を専門職として確立する「リージョナリー」とも呼べるシステムを構築しています。これによりリージョンの兵士は自分たちの思想に浸りながら鍛錬に専念し、設定上銃器をもたずとも、NCRの一般兵士多数を圧倒できる戦闘力を有しています。
またリージョンでは銃のみならず、医療品など他の先進技術の使用におおむね否定的です。彼らの化学技術を忌避する志向は、シリーズおなじみの回復手段であるスティムパックの使用すら否定します。こうして彼らは技術への依存を拒絶し、肉体と精神の鍛錬を重視する文明観を持っています。
銃を使わないという選択そのものが、彼らの思想と強さを体現しているのです。

もちろん、世紀末世界ゆえの「あるものは使う論理」により、リージョンの上級兵士や将校をはじめとする一部の兵士には銃の使用が許されています。しかしそれは「例外的な特権」として扱われ、設定上一般の戦士たちには与えられません。この非対称性は、リージョンの階級社会と絶対的な統制も象徴しています。
銃を持たないことで、戦士は組織への完全な服従を証明しているのです。

Mr.ハウスは、ニューベガスを支配する天才科学者兼、不死のビジネスマンです。彼の手駒であるセキュリトロンは、画一的な機械的暴力を行使します。ミサイルやレーザー、グレネードランチャーといった重火器を搭載したロボット軍団は、「計算された暴力」の完璧な体現です。

ハウスの文明観は、人間の非合理性を排除し、完全な管理と効率性を追求します。セキュリトロンには感情も迷いもなく、ただプログラムに従って敵を排除します。この冷徹な暴力装置は、ハウスが目指す「独裁的ユートピア」の本質を表現しています。
人間の自由や感情よりも、安定と繁栄を優先する文明。それがハウスが銃…いいえ、銃さえも超えた機械的暴力に込めた思想です。
そして独立ルートを選んだ運び屋は、どの既存の文明にも従いません。このルートでの運び屋が使う銃は、文字通り何でもありです。NCRのサービスライフルでもいいし、リージョンの暗殺者から奪ったアサルトカービンでもいいです。カウボーイ・リピーターでも、Falloutらしくガウスライフルやレーザー / プラズマ兵器でも構いません。



この自由さは、無秩序ではなく「選択の主体性」を意味します。既存の文明に縛られず、自分自身の判断で行動する。独立ルートの銃は「どの文明にも属さない、しかし自分自身の文明を創造する」という意志の表れなのです。
それは最も不確実で、最も危険で、しかし最も自由な選択肢です。
こうして見ると、『Fallout:New Vegas』における銃は、単なる武器を超えて「文明の思想」そのものを物質化した存在になっています。トリガーを引くという行為は、敵を倒すだけでなく「どの文明を支持し、どの未来を選ぶか」という意思表示になるのです。
また、銃器のみならず戦闘システムにも思想の反映が見られます。『Fallout: New Vegas』では、弾薬の種類を選択できるシステムが実装されています。
このゲームの防御システムはDT(Damage Threshold/ダメージ閾値)制を採用しており、例えば敵の装甲値が8の場合、7以下のダメージはほとんど通りませんが、9以上のダメージはほとんどが通ります。この仕組みにより、弾薬選択が戦術的な意味を持っています。

体力は高いが装甲は薄い敵には、ダメージが増加するホローポイント弾を。装甲は厚いが体力は低い敵には、DT値を貫通するAP弾(徹甲弾)を。この使い分けもまた、「選択の重要性」という作品全体のテーマと符合しています。 銃そのものだけでなく、その銃で何を撃つかまでもが、プレイヤーの判断と価値観を問う装置になっているのです。
銃の引き金、文明の引き金
人は過ちを繰り返す
『Fallout』シリーズを貫くこの言葉は、『Fallout:New Vegas』でも変わらぬ真実です。核戦争という最大の過ちの後で、その過ちの直接の原因となったエネルギー ―― フーバーダムの発電機能 ―― を巡って、またしても巨大な戦争が起きようとしています。
しかし『Fallout:New Vegas』が提示するのは、『Fallout 4』のような「それでも希望を持ち続ける」というポジティブな信念ではありません。もっと現実的で、もっと即物的な問いです。
「では、どの過ちを繰り返すのか?」
NCRを選べば、民主主義の理想と官僚制の腐敗を同時に引き継ぎます。領土は拡大し、法は整備されますが、個人は巨大なシステムの歯車になります。それは旧世界のアメリカが辿った道であり、同じ繁栄と同じ矛盾を抱えています。
リージョンを選べば、強力な統制と絶対的な秩序を手に入れます。犯罪は消え、道は安全になりますが、その代償は個人の自由と人権であり、そして持続性のなさも否が応でも目立ちます。それは古代ローマが辿った道であり、同じ栄光と同じ残酷さに照らされています。
ハウスを選べば、技術による完璧な管理社会が実現します。ニューベガスは繁栄し、人々は安全に暮らし、ハウスの野望は宇宙進出すら視野に入ります。しかし、それは一人の独裁者の意志に完全に依存した脆弱な平和です。それは啓蒙専制君主が治めた国、あるいは有能な独裁者に依存した国が辿った道であり、同じ効率性と同じ危険性を併せ持ちます。
独立を選べば、誰にも支配されない自由を得ます。しかしその自由は、同時に混乱と不確実性も意味します。新しい文明を創造する可能性がありますが、同時に無秩序な崩壊の危険性もあります。それは革命家たちが辿った道であり、同じ理想と同じ不安定さに揺らぎます。
どの選択肢も完璧ではありません。どれを選んでも、何かを得て、何かを失います。過ちは必ず繰り返されます。しかし『Fallout:New Vegas』が問いかけるのは、「過ちを避けられるか」ではなく「どの過ちを選ぶか」なのです。
不完全でも、それでも文明は動き出す
運び屋は、モハビの片隅で頭を撃たれて生き延びた配達人です。彼 / 彼女には特別な出自も、英雄的な使命もありません。ただの一般人が、歴史の偶然によってモハビの運命を決定する立場に立たされただけです。
しかし、だからこそ運び屋の選択には重みがあります。運び屋は神でも救世主でもなく、人間です。完璧な答えを持っているわけではありません。ただ、目の前にある選択肢の中から、自分が最も「ましだ」と思うものを選ぶだけです。
そしてその選択は多くの場合、トリガーを引くという具体的な行為に集約されます。NCR大統領を守るためにリージョンの暗殺者を撃つとき。ハウスを裏切って豪華なペントハウスを完全に我が物とするとき。あるいはフーバーダムで、双頭の熊か牡牛どちらかの旗を掲げるために戦うとき。
銃の引き金は、文明の引き金です。一発の銃弾が、モハビの未来を決定します。それは恐ろしいほど単純で、恐ろしいほど重い選択です。
本稿の冒頭でお伝えした通り、『Fallout 4』では、銃は「誰かの記憶を引き継ぐ装置」でした。個人のアイデンティティを形成し、過去と現在を繋ぐ媒体でした。しかし『Fallout:New Vegas』では、銃は「運び屋自身が文明を選択する装置」です。社会の方向性を決定し、未来を撃ち出す媒体なのです。
運び屋が手にする銃は、ここにきては最早「誰かの銃」ではありません。社会への影響の大きさを考えるとそれは「みなの銃」であり、「文明の銃」です。
その引き金を引くことは、個人の戦いを超えて、社会全体の運命を左右する行為になります。その銃もそれを握る者も「歴史として語り継がれ、共有される対象」になります。
サラエヴォでオーストリア大公を撃ち、第一次世界大戦の切っ掛けとなったガヴリロ・プリンツィプとブローニング M1910の様に。あるいはテキサス州ダラスでケネディ大統領を撃ち、ベトナム戦争の泥沼化の遠因となったリー・ハーヴェイ・オズワルドとカルカノ M1938の様に。
人は過ちを繰り返します。それは避けられません。しかし『Fallout:New Vegas』の銃器哲学が導き出すのは、過ちを繰り返す中でも、人は選択し続けるという事実です。完璧ではないけれど、何もしないよりはましな選択を。理想的ではないけれど、最悪ではない未来を。
そして文明は、そうした不完全な選択の積み重ねによって、再び動き出します。理想の世界ではなく、暗黒の世界でもなく、ただ「続いていく」世界として。
それがモハビが辿る道であり、運び屋が撃ち出す未来です。
モハビは今日もひらかれています。どの旗が立ったのか、どんな文明が形作られたのか、それはまだ語られていません。しかし世界は止まっていません。
銃声が響き、人々が動き、ルーレットのホイールとスロットマシンのリールが回ります。文明が ―― 不完全でも、矛盾を抱えていても ―― その先へ進んでいます。
そしてまた明日も、ニューベガスは新しい旅人を迎え入れるでしょう。

ようこそベガスへ、ようこそNew Vegasへ













