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【JRPGの行方】第5回 「キャラ」と「ぼく」のあいだ

みなさんは「キャラ」と「キャラクター」の違いについて聞いたことがあるでしょうか。マンガ論で用いられてきた言葉ですが、これがゲームにおいてもこれが参照可能であり、「物語」を重視してきたRPGにおいて大きな意味を持つと考えます。

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【JRPGの行方】第5回 「キャラ」と「ぼく」のあいだ
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■「キャラ」と「キャラクター」

みなさんは「キャラ」と「キャラクター」の違いについて聞いたことがあるでしょうか。これはマンガ論で用いられてきた言葉ですが、まずはどういった意味なのか、マンガ表現論として知られる伊藤剛氏の『テヅカ・イズ・デッド』から引用してみたいと思います。

    図像に対して「固有名による名指し」が行われることが、人がキャラをキャラとして認識する決定的な条件だ。この一点をもって、イラストレーションや絵画、あるいは標識のようなアイコンとキャラ図像とを区別する一線として考えることもできる。

    「キャラクター」は「登場人物」と等価な意味として扱いうるが、「キャラ」はそうではない。そして「絵」でもない。少なくとも「絵画」ではない。いいかえれば、描かれた図像単体で自律しているものではない。

    【キャラ】多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指しされることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの

    【キャラクター】「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの

    「キャラクター」は、必ず基盤に「キャラ」であることを持つ。だが、図像のコードの選択によって、あるいは作家の描線の個性などによって、「キャラ」であることの強度に差ができる。おそらく「キャラ」であることの強度とは、テクストに編入されることなく、単独に環境の中にあっても、強烈に「存在感」を持つことと規定できる。だからそれは、作品世界のなかでのエピソードや時間軸に支えられることを、必ずしも必要としない。

    キャラであることは、複数のテクスト間においても同一性を見せる。それは、テクスト毎に描画スタイルが異なっていても保持される。

    ――『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』第三章「キャラクター」とは何か(【】は筆者による)

テクストから離れ、単独で存在感を持つことを「キャラクター(キャラ)の自律化」と呼びます。なお「キャラ」と「キャラクター」は完全に二項に分けられるものではなく、ひとつのキャラクターが両方の要素を持っています。こうした話をなぜ引用したのかというと、ゲームにおいてもこれが参照可能であり、キャラクター/キャラの取り扱い方が、「物語」を重視してきたRPGにおいて大きな意味を持つと考えるからです。

■FFにおけるキャラクターの変化

サンプルとしてファイナルファンタジーシリーズを見ていきます。またFFかよ! という声もありそうですが、シリーズとして歴史を持ちながら変化を続けてきたFFは、キャラクターにおいても著しい変容を見せています。

シリーズは当初、天野喜孝氏のデザインイラストとドット絵で構成されてきました。「比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ」たものを「キャラ」とするなら、天野氏のイラストはそれと正反対のもの。近作に比べると「キャラが弱い」という言い方もできるかもしれませんが、そもそも天野氏の絵をキャラと表現することもあまりないはずです。

グラフィック面での進化によって、FFに限らず最近のゲームにおいて、キャラの図像コードはゲーム内外でおおよそ統一されています。パッケージアートとゲーム内のキャラの差異はほぼありませんし、基本的に同じ描画スタイルになっています。かつてドット絵の時代は、色のついた動くモノを「キャラ」として認識するために、イラストで補完させることが必要でした。パッケージのマリオとドット絵のマリオが「同一である」と認識することで、ゲームにおいてマリオというキャラが冒険している、という気分をより感じられました。

初期のFFは、天野氏のイラストとドット絵が「同一である」という認識のもと「キャラ」として成立しながら、ゲーム内での物語を経ることで「キャラクター」としての人格、人生を想像させてきました。なお、その後の『FF7』において、ポリゴンの塊を「キャラ」として見ることができたのも、イラストやCGムービーによって補完されていたからだと考えます。

『FF7』以降、野村哲也氏のデザインによって、FFの登場人物たちは「キャラ」として強度を獲得していきました。ただしこれはまだ「作家の描線の個性」によってキャラの強度に差ができた、という話にすぎません。そこではまだ、それぞれの作品におけるキャラクターたちは、それぞれのテクスト(=物語)と結びついたものでした。

《Kako》
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