
■なまえをつけてください
ここで、ゲームならではの「キャラ」とも「キャラクター」とも言い切れない存在があることに気づきます。2008年に発売の『ディシディア ファイナルファンタジー』から話を始めたいと思います。
シリーズキャラクターが入り乱れ、オリジナルの物語が展開される本作。そこでキャラクターたちは元々のテクストから遊離し、「作品世界のなかでのエピソードや時間軸に支えられることを必要としない」キャラとして振る舞うことになっていきました。FFの登場人物たちを既存の物語から引き剥がし、単独で取り扱えるようになったことは、現在の派生作品においても、きわめて重要なものとなっています。
さて、「固有名による名指しが行われることが、人がキャラをキャラとして認識する決定的な条件だ。この一点をもって、イラストレーションや絵画、あるいは標識のようなアイコンとキャラ図像とを区別する一線として考えることもできる」という言葉を再度引用しておきましょう。ディシディアで「キャラ」として振る舞う登場人物たちの中で、違和を感じさせる存在があります。それが『FF1』のウォーリア・オブ・ライトであり、『FF3』のオニオンナイトです。そして、さらに言えば『FF5』のバッツも。原作を参照しながら考えていきます。
『FF1』において、ウォーリア・オブ・ライトとは、要するに「光の戦士」です。「エンディングでは「2000年の時を越え、戦っていたのは君なのだ」と語られる(ファイナルファンタジー用語辞典 Wiki)」ということからもうかがえるように、ウォーリア・オブ・ライトとはプレイヤー自身であり、固有の人格を持ったキャラクターとは言いがたい存在であることが分かります。
『FF3』の登場人物である「オニオンナイト」とはそもそも名前ですらなく、「たまねぎ剣士」という(職業とすら呼べないような)ジョブ名にすぎません。4人の操作キャラたちは、名前を持たず、特に背景も持たないプレイヤーの分身に過ぎない存在といえます。ちなみに『FF3』のリメイク版においては、プレイヤーキャラクターの4人に名前と性格が設定されました。これは「キャラ」化の一例といえるでしょう。
ジョブによって図像が変わり、パーティの4人ともに共通の図像になることも、彼らをキャラと言いがたい理由です。つまり原作の「たまねぎ剣士」とはジョブを示す記号にすぎず、固有の人格として振る舞うディシディアの「オニオンナイト」はそれとは全く別のキャラなのだ、といえます。
『FF5』の「バッツ」にはいちおう名前と設定が用意されており、一見すると確固としたキャラのように見えます。しかし実は、「スーパーファミコン版では「バッツ」という名前は雑誌記事を除くとパッケージ裏の画面写真のみに掲載され、ゲーム内のデフォルト名は空欄で、説明書の写真では一貫して「スクウェア」という名前となっている(Wikipedia)」。つまり、当初バッツという名前は、このキャラと強い結び付きがなく、「プレイヤーの誰かがつけた名前」のひとつに過ぎないものでした。
ちなみに、こうした「名づけ」はFFシリーズの途中から失われましたが、これはFFのプレイヤーキャラクターが完全に「キャラ」として独立していった証しだと考えられます。『FF10』のティーダも、当初はユウナにとっての「キミ」であり「ボク(=プレイヤー自身)」であるという余地をかろうじて残していました。ただ、ビジュアルや喋り方なども含めキャラとしての強度が高く、「見る物語」によってプレイヤーが介入する機会を失ったこともあいまって、「主人公キャラクター」としてではなく、ティーダというキャラとして独立していったのです。
「キャラ」としての基盤が希薄な彼らは、「主人公(=プレイヤー)」として用意された、ゲームならではの存在といえます。キャラでもキャラクターでもない、完全にプレイヤーの分身という扱いの「アバター」とも違う彼らは、プレイヤーを入れるための「器」という言い方がふさわしいかもしれません。
『FF5』について、ビジュアルにも触れておきましょう。“バッツ”は、FFシリーズの中で最も「ザ・主人公」的な見た目だと考えています。この「ザ・主人公」とは、マンガやアニメでも主人公に見られる図像コードで、「特徴と呼べる特徴を持たないが、モブと呼ぶほど存在感が希薄ではなく、まあまあイケメンで、正義感が強そうなきりっとした顔立ち」(アバター作成においては初期設定に用意されているような顔であり、私はこれを「デフォルト顔」と呼んでいます)のことです。これを「主人公」という図像コードと呼んでもいいかもしれません。
RPGにおいては『ドラゴンクエスト』シリーズの勇者に象徴され、『イース』『幻想水滸伝』『アークザラッド』など数多くのRPGシリーズで見られる図像コード。プレイヤーを入れる器であるために、主人公たちはキャラの強度を抑えることが必要だったのです。
「アニメ化」が進んだ現在においては、アニメ的な主人公と互換性を持つようになり、共通コードを持ちながら多様性も出てきました。




