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【JRPGの行方】第5回 「キャラ」と「ぼく」のあいだ

みなさんは「キャラ」と「キャラクター」の違いについて聞いたことがあるでしょうか。マンガ論で用いられてきた言葉ですが、これがゲームにおいてもこれが参照可能であり、「物語」を重視してきたRPGにおいて大きな意味を持つと考えます。

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【JRPGの行方】第5回 「キャラ」と「ぼく」のあいだ
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■記号としての主人公

キャラともキャラクターともいえない、そんな「主人公」の象徴ともいえるのが『ドラゴンクエスト』です。本シリーズの主人公は基本的に名前を持ちません。それはただ主人公という図像であり、イラストのみで「キャラ」として見ることは難しいはずです。そこに、例えば「たろう」だったり「るしいど」だったりの名づけを行うことで、はじめて「キャラ」として成立します。それは他と共有できない自分だけのキャラです。

そこからゲーム内の物語を通して「キャラクター」としての実存を獲得していくこともあります。そこにプレイヤーが自分を投影する、あるいは物語の選択をプレイヤーが担うことで、主人公=自分という強い結びつきができあがります(主人公を自分の名前にすることでそれはさらに高まります)。海外のRPGでは「キャラメイキング」によって図像の段階からプレイヤーがキャラクター作りに携わることも多いです。

[図像 + 名づけ(=キャラ)+ 物語 + プレイヤー = キャラクター]

ゲーム内のキャラが生き生きとしたキャラクターとして存在するためには、物語を進めるためのプレイヤーの存在が不可欠です。ここでは分かりやすく主人公のみを挙げていますが、例えばダンジョンRPGなどではプレイヤーが操作するキャラ全てに同様のことがいえます。ユニットやクラス固有の図像に固有の名前をつけ、自分だけの冒険をすることで、そのユニットが生きたキャラクターとして動き始めるのです。

ドラクエの主人公は、プレイヤーが名づけを行い、自らが動かす物語を通じて「人格」を持った「身体」=キャラクターとして認識することができます。ウォーリア・オブ・ライトやオニオンナイト、そしてバッツも同じことが言えるのではないでしょうか。物語とプレイヤーの力ではじめて彼らの「キャラクターが立つ」ことができるのです。

オニオンナイトやバッツが『ディシディア』でクラウドやスコールに混じって登場したときに、なにやら違和感を覚えたのは私だけではないはず。これはたんに図像の変更だけでなく、そもそもキャラではなかった存在が、あたかも「キャラ」のように登場したことに起因しているのだと考えます。

こうした違和感を覚えた作品が他にもあります。それが『大乱闘スマッシュブラザーズ』で登場した「ネス」です。原作の『MOTHER2 ギーグの逆襲』の主人公であるネスは、私にとってネスであってネスではない、「ごく普通の少年」であり「ぼく」だったはずでした。だからこそママの手料理も「ハンバーグ」でなく「すぶた」でも「にくじゃが」でも良かったはずでした。

そのネスがマリオやカービィなどの強度の高いキャラ(アクションゲームは物語が少ない分「キャラ」の強度が必要)たちに混じって、英語でしゃべり、原作では使えないPKファイヤーなどを繰り出して戦う様は、原作が好きだった私にとって、けっこう“ブレインショック”な出来事でした。これはわたしの知っているマザー2の主人公と同じキャラだ、そう思うのは難しいことでした。

ちなみにネスと同様にポーラも「可愛い女の子」で、ジェフも「メガネの男の子」だったのですが、なぜかプーだけは違いました。今思えば、原作を初めてプレイしたときにプーに感じた違和感は、彼だけがひとり「キャラ」として浮いて見えたからなのかもしれません。

《Kako》

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