
■物語からの解放、RPGからの解放
FFに話を戻します。名前を持たず、人格も感じさせず、キャラとしての強度もない彼らが、『ディシディア』によって自律化していく。これと対照的な例が2002年から発売されてきた『キングダム ハーツ』シリーズです。そこでは主に、あらかじめ強度のあった『FF7』以降のキャラたちが、ディズニーキャラクターたちとともに登場しています。キャラの強度でいえば世界有数といえるディズニーキャラだからこそ、別のテクストへの参入が容易に出来てしまうのです! どこへ行ってもミッキーはミッキーだよ!
『キングダム ハーツ』や『ディシディア』に先んじて、様々なテクストにおいて自由に活躍してきたキャラがいます。それが「チョコボ」です。1997年の『チョコボの不思議なダンジョン』を筆頭に、違和感なく、軽々とジャンルや物語を飛び越えてきました。これはチョコボがキャラとしての強度が高く、テクストとの結びつきが弱かったからこそ成せた業だといえるでしょう。
特定の物語から解放され、『キングダム ハーツ』『ディシディア』や、その他のスピンオフでキャラとしての強度を獲得していったFFの登場人物たち。『シアトリズム ファイナルファンタジー』や『FF レコードキーパー』などでも分かるように、描画スタイルに影響されることなく、自律性を保てるようになっていきます。
キャラクターの自律化と並行して、物語の失効とプレイヤーの疎外が進んでいきました。「見る物語」によってプレイヤーをキャラから引きはがしながら、前回まででお伝えしたように物語は次第に力を失っていきます。「図像 + 名前 + 物語 + プレイヤー = キャラクター」という式から物語とプレイヤーを引き算すると、そこに残るのは「キャラ」だけです。
こうしてFFは、もはや個別のRPG作品、個別の物語に縛られなくなったキャラたちが主役となりました。『FF』はRPGシリーズの総称ではなく、キャラクターや世界観によって形成されるひとつの「ブランド」となっていったのです。FFにおいて「RPG」はその一部に過ぎなくなった、という言い方もできるかもしれません。
■キャラの自律化
前回の繰り返しになりますが、こうした「キャラの自律化」はFFシリーズに限ったことではありません。今も続いているRPGシリーズの多くが、同じような傾向を持つと感じています。
RPGの登場人物という役割から離れ、様々なジャンルでキャラたちは活躍しています。作品の枠を超えて、シリーズキャラが集合することはもはや珍しくありません。ファンタジーなはずなのに、時空を超えてまるで現代のキャラクターのような振る舞いをします。キャラクター自身が自らの声で作品の宣伝をします。ゲームの世界観とは無関係なコスチュームを、そのゲームの物語で着ることができます。
なにやら批判めいていますが、これらはゲームとしての楽しさを損なうものではなく、むしろ高めてくれるものです。キャラたちが活躍できる様々な場所や作品を超えた様々な見た目を用意することは、キャラ愛というプレイヤーの欲求に応えるためでもありました。
プレイヤーと物語を置き去りにして、登場人物たちが「キャラ立ち」していったのが、今の日本のRPGです。ちなみに第一回で触れたゲームの「アニメ化」は、図像においてキャラの強度に関する問題を軽々とクリアしていきます。あらかじめ「キャラ」として存在しうるキャラクターデザインを行うにあたり、アニメ的な図像はきわめて有用でした。




