
史書の記述から見る夢幻の四英傑、今回は袁紹と呂布です。前回の張角、董卓に比べるとキャスト変更もなく一見今まで通りですが、『真・三國無双ORIGINS』では漢室の内部対立、袁家の後継者争いに注力し、その中で袁紹が果たした役割が描かれていました。
新たな側面が描かれた袁紹。しかし史書では……
これまでの『三國無双』シリーズでは、袁紹といえば曹操との「官渡の戦い」における敵役としての印象が強い武将でした。しかし今作では「十常侍の乱」が描かれ、漢室の政治を腐敗させていた宦官勢力に対し、袁紹が何進とともに立ち上がる姿が描かれています。大将軍・何進を謀殺した十常侍を一掃するため、袁紹は徹底的な武力弾圧を主導し、乱の鎮圧に重要な役割を果たしました。
紹旣斬宦者所署司隷校尉許相、遂勒兵捕諸閹人、無少長皆殺之。或有無鬚而誤死者、至自發露形體而後得免、宦者或有行善自守而猶見及。其濫如此。死者二千餘人。急追珪等、珪等悉赴河死。帝得還宮。
袁紹は宦官が任命した司隷校尉許相を斬ると、兵を率いて宦官らを捕らえ、年少も年長も問わず皆殺しにした。ひげのない者が誤って殺されることもあれば、自らひげを剃って免れる者もいた。善行を積み身を守った宦官でさえも巻き込まれる者があった。これほどまでに無差別であった。死者二千余人。急ぎ珪らを追うと、珪らは皆河に身を投げて死んだ。帝は宮殿に戻ることができた。

漢室内のパワーゲームで袁紹と曹操はどのくらい差があったのか――それを念頭に官渡の戦いをみると、曹操が袁紹に勝つことがどのような意味を持つかが分かると思います。夢幻のIFでは「太平の要」を迎えるにあたって謙虚になり、部下からは信頼を勝ち取って歴史とは異なる道を歩んでいきましたが、「後漢書」は大敗を喫した官渡の戦いを引き合いにこのような人物評になっています。

紹外寬雅有局度、憂喜不形於色、而性矜愎自高、短於從善、故至於敗。
紹は表向きは寛大で優雅であるように見せかけ、憂いも喜びも顔に出さない。しかし、その本性は虚栄心と傲慢さに満ち、善の助言に耳を貸すことを好まず、それ故に敗北に至った。
「三国志」で仕官の検討で面会した郭嘉も、袁紹についてこのように評しました。
初、北見袁紹、謂紹謀臣辛評、郭圖曰:「夫智者審於量主、故百舉百全而功名可立也。袁公徒欲效周公之下士、而未知用人之機。多端寡要、好謀無決、欲與共濟天下大難、定霸王之業、難矣!」於是遂去之。
最初に、北方で袁紹に会ったとき、紹の軍師である辛評と郭図に言った。「賢者は主君を慎重に見極めるゆえ、百の行動が百の成功を収め、功名を立てることができる。袁公はただ周公のように士を重んじようとするが、人材を用いる要領を知らない。多岐にわたり要点を欠き、策を弄するが決断力に欠ける。これでは天下の大難を共に乗り越え、覇王の業を成し遂げることは難しい」そこで彼は去って行った。

官渡の戦いでは2人の軍師、沮授と田豊が進言するも袁紹が助言を聞き入れず、プライドが邪魔する様子が描写されました。
紹進軍黎陽、遣顏良攻劉延於白馬。沮授又諫紹:「良性促狹,雖驍勇不可獨任。」紹不聽。太祖救延、與良戰、破斬良。
袁紹は軍を率いて黎陽に進み、顔良を派遣して白馬の劉延を攻めさせた。沮授は再び袁紹に諫めた。「顔良は気性が狭量で、勇猛であっても単独で任せるべきではありません。」しかし袁紹は聞き入れなかった。曹操は劉延を救援し、顔良と戦い、撃破してその首を斬った。

初、紹之南也、田豐說紹曰:「曹公善用兵、變化無方、衆雖少、未可輕也、不如以久持之。(中略)今釋廟勝之策、而決成敗於一戰、若不如志、悔無及也。」紹不從。豐懇諫、紹怒甚、以爲沮衆、械繫之。紹軍旣敗、或謂豐曰:「君必見重。」豐曰:「若軍有利、吾必全、今軍敗、吾其死矣。」紹還,謂左右曰:「吾不用田豐言、果爲所笑。」遂殺之。
最初に紹が南下した時、田豊は紹に進言した。「曹公は兵を用いるのが巧みで、変化に富み、兵力は少ないとはいえ軽んじてはなりません。むしろ持久戦で対抗すべきです。(中略)今、戦勝の策を捨てて一戦に成敗を決するとは、もし思い通りにならぬなら、後悔しても遅い。」紹は聞き入れなかった。豊が懇願して諫めると、紹は激怒し、士気を挫くとして彼を鎖で縛った。紹軍が敗れた後、ある者が豊に言った。「君はきっと重用されるだろう。」豊は言った。「もし軍に利があれば、私は必ず助かる。今、軍が敗れたのだから、私は死ぬだろう。」 紹が戻ると、側近に言った。「田豊の言を聞き入れなかったが、そのせいで笑われることになった」。そして彼を殺した。

ゲームでは暴れ放題の呂布も史書を読むとイメージが変わる?
続いては相変わらずの暴れ放題にある意味安心した呂布。呂布と王允が結託して董卓を誅殺したというところは「演義」でも変わりませんが、史書では呂布が董卓の侍女に手を出し、バレるのを恐れたが故に殺害に加担したという経緯です。
董卓の不機嫌を収めるために頭を下げたり、王允に董卓への不満をこぼしたりと、ふてぶてしい『無双』の呂布とは大分イメージが違いますね。武芸に優れていたとはこちらでも書いてありますが、「演義」で大活躍を見せた虎牢関の戦いはなく、それどころか「英雄記」によると陽人の戦いで、気に食わない味方に偽報を流して陥れたとか……。董卓軍は大敗しここで華雄が討ち取られました。
布便弓馬、膂力過人、號為飛將。稍遷至中郎將、封都亭侯。卓自以遇人無禮、恐人謀己、行止常以布自衛。然卓性剛而褊、忿不思難、嘗小失意、拔手戟擲布。布拳捷避之、為卓顧謝、卓意亦解。由是陰怨卓。卓常使布守中閤、布與卓侍婢私通、恐事發覺、心不自安。
布は弓馬に長け、膂力が人並み外れており、飛将と号した。次第に中郎将に昇進し、都亭侯に封ぜられた。卓は人に対する礼儀を欠いていたため、他人に謀られることを恐れ、行動には常に布を護衛として伴った。しかし卓は剛直で短気な性格で、怒りに任せて危険を考えず、些細な不愉快から手戟を抜いて布に投げつけたことがある。布は素早く拳でかわし、卓に振り返って謝罪したため、卓の怒りも収まった。これにより布は密かに卓を恨むようになった。卓はしばしば布に中閤の警護を命じたが、布は卓の侍女と密通しており、発覚を恐れ、心安らかではなかった。

先是、司徒王允以布州里壯健、厚接納之。後布詣允、陳卓幾見殺狀。時允與僕射士孫瑞密謀誅卓、是以告布使為內應。
布曰:「奈如父子何!」允曰:「君自姓呂,本非骨肉。今憂死不暇,何謂父子?」布遂許之、手刃刺卓。語在卓傳。允以布為(奮威)〔奮武〕將軍、假節、儀比三司、進封溫侯、共秉朝政。布自殺卓後、畏惡涼州人、涼州人皆怨。由是李傕等遂相結還攻長安城。 布不能拒、傕等遂入長安。卓死後六旬、布亦敗。將數百騎出武關、欲詣袁術。まず、司徒の王允は、董卓の州里の壮健な者である布を厚く迎え入れた。後に布が允を訪ね、董卓に殺されかけた経緯を訴えた。当時、允は僕射の士孫瑞と密かに董卓を誅殺する謀を練っていたため、布に内応を命じた。
布は「父子にどうしてそんなことができようか」と言った。允は「君はもともと呂姓で、血の繋がった肉親ではない。今や死の憂いをかかえて余裕がなくて、どうして父子と言えようか」と言った。布はついに承諾し、自ら卓を刺し殺した。(中略)布が卓を誅殺した後、涼州人を恐れ嫌ったため、涼州人は皆怨みを抱いた。これにより李傕らが結託して長安城を再攻めした。布は防ぎきれず、傕らはついに長安に侵入した。卓の死後わずか六旬で、布もまた敗れた。数百騎を率いて武関から脱出し、袁術のもとへ赴こうとした。

呂布は武人として確かな強さを持っていたようですが、董卓軍や放浪中など大局的には負けることも多く、軍として勝利を全うした記述は少ないです。董卓を討った後もすぐにやってきた涼州勢に敗北し、袁家の庇護を求めて彷徨うことに。下邳の戦いでは陳宮が献じた打って出る策を呂布の正妻が拒絶し、呂布もそれに従ったことが敗因の一つになりました。
夢幻のIFでは却下されたその出撃策が実現するのです。呂布が戦場で強さを発揮して勝利を重ねたのは、追放後に袁紹の食客になっていた時期で、「人中の呂布、馬中の赤兎」の評はこのときの活躍の記述で出てくる言葉です。

中国に限らずあらゆる歴史書はノンフィクションとして書かれてはいるものの、それがどこまで「事実」かは分かりません。史料があるものも選び方で全く見え方も変わりますし、それに基づいた史劇の人物像も時代を反映して常に移り変わります。だからこそ三国志はスタンダードでありながら、常に余白部分を更新し続ける最新のエンタメであり続けるのです。















