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『DEATH STRANDING』に出てくる名著「なわ」をざっくり雑考―絶望と希望、道具と人間の狭間にかかる「繋がり」

『DEATH STRANDING』と安部公房「なわ」の関連について雑考します。

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『DEATH STRANDING』に出てくる名著「なわ」をざっくり雑考―絶望と希望、道具と人間の狭間にかかる「繋がり」
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◆『デススト』と安部公房著「なわ」

 「なわ」は、「棒」とならんで、もっとも古い人間の「道具」の一つだった。「棒」は、悪い空間を遠ざけるために、「なわ」は、善い空間を引きよせるために、人類が発明した、最初の友達だった。「なわ」と「棒」は、人間のいるところならば、どこにでもいた。

 いまでも、彼等は、まるで家族の一員のように、すべての住居に入りこみ、住みついている。

(安部公房 「なわ」より引用(新潮社刊「無関係な死 時の崖」に収録))

前段が長くなりましたが、ここからは『デススト』や「ゲームゲノム」で触れられた「なわ」との関係を深掘りしていきます。

そもそも「なわ」について簡単に解説をしておくと、ある男が、まるで廃墟のような工場に不法侵入した子どもたちを見るというところからはじまります。人間の根底にある本能を見るかのようなおどろおどろしさを描いており、『デススト』の引用から受けるイメージと違い「希望はどこにあるんだ!」と叫びたくなるほどです。

安部公房作品はバッドエンドが多め……と言いつつ、純文学にはバッドエンドという括りもないので「まあ、木になって植物園に飾られたけど、本人的にはそれで幸せなんでしょうね……」というような内容がふんだんに盛り込まれています。

「ゲームゲノム」で語られた内容、そして『デススト』作中でも縄は味方の象徴です。そしてOPで引用された上記の部分だけを見れば「善い空間を引き寄せるための道具」とポジティブに見えるでしょう。

しかし「なわ」では不法侵入したある幼い姉妹が仔犬を絞め殺すために使いました。そして無理心中を図ろうとする父親を絞殺するためにも使用します。仔犬を殺すという一見幼子の残虐性に見える展開を「父親を殺す練習」に切り替え、道具として使用したわけです。「縄」は決してハッピーアイテムではないのです。

上記のように『デススト』に散見出来る「縄」のイメージと違い、まったく陰惨な安部公房の「なわ」。むしろ「“繋がり”が絶望を呼ぶ」と言わんばかりの恐ろしさです。(もっとも、少しストーリーを進めれば『デススト』のポジティブさも少なくなりますが……)

しかし、少女たちは“無理心中を望む”ろくでなしの父親を殺すことで自分たちが死なない「善い空間」を引き寄せたとも解釈できます。

ただ、「なわ」でもっともポジティブな描写は工場に空いた穴の底に海を見たシーン。少女たちも、観察者だった主人公も、海に希望を見いだします。それはなんら実体のない慰めではありますが、未来や人跡未踏の地への憧れ≒メタファーではないでしょうか。

実は「善い空間」を引き寄せるまでは小島監督がTwitterで公開した高校二年生のころの読書感想文でも語られています。ファンの方で見逃しているという方はぜひ一読してみてください。

さて、そこで次に考えられるのは「縄と棒」の違い。小島監督が公開した読書感想文ではここに疑問を抱き考察しています。

安部公房は社会との関連性、孤独、結合による食い違いなどを浮き彫りにしてはいますが、それはネットが発達する以前の高度経済成長下での話。戦前の密接な関係性に縛られた社会から脱し、高度経済成長期に踏み込んだ社会について語っているのであって、現在の「ネットの発達により、さらに密接となった」現在については語っていません。

部屋に閉じこもれば、そこが理想の空間になったのが安部公房の生きた時代。つまり「縄と棒」の違いについて語る必要が少なかったのではないかと思ってしまいます。

安部公房は多くのモチーフを使用しました。それは時に縄であり棒であり、壁であり、他人の顔であり、カイワレ大根だったのです。「道具か人間か」そして「その性質」を語っているに過ぎないのではないでしょうか。

ですので、「縄と棒」に違いを見出したことこそが“小島監督のクリエイティビティ”だと考えています。もちろん小島監督が、安部公房は「棒と縄」の違いに意図的だったと言えば、「なるほどっ……!」となってしまう可能性は大いにありますが……。

ただ、『デススト』で「棒」は銃であり、「縄」は繋がりであるということは作品の根本でありそうで、少なくとも筆者が安部公房作品に触れるのみでは、至ることが出来なかった考えです。願わくば人を殺すにしても“性質は縄でありたい”と思わせてくれることこそ、『デススト』の素晴らしさではないでしょうか。

……しかし、同時に縄であっても絶望や死は避けられないものです。

「なわ」と『デススト』に共通するのは、どうしようもない現実との対峙です。ハッピーエンドやバッドエンドではなく、絶望を“避けられない苦痛”として捉えることが『デススト』を理解するのにあたって重要なのでは……? と筆者は考えます。

少なくともサムはストーリーを通じて、深い絶望に目を向け、同時に孤独からの回帰を果たしました。サムの旅路を見届けた後には、安部公房が残した「明日のない希望よりもむしろ絶望の明日を」という一文もより輝いて見えます。

『デススト』と「なわ」にも通じる“親子”というキーワード
《高村 響》

ゲームライター(難易度カジュアル) 高村 響

最近、ゲームをしながら「なんか近頃ゲームしてないな」と思うようになってきた。文学研究で博士課程まで進んだものの諸事情(ゲームのしすぎなど)でドロップアウト。中島らもとか安部公房を調べていた。近頃は「かしこそうな記事書かせてください!」と知性ない発言をよくしている。しかしアホであることは賢いことの次に良い状態かもしれない……。

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