『DEATH STRANDING』に出てくる名著「なわ」をざっくり雑考―絶望と希望、道具と人間の狭間にかかる「繋がり」 3ページ目 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

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『DEATH STRANDING』に出てくる名著「なわ」をざっくり雑考―絶望と希望、道具と人間の狭間にかかる「繋がり」

『DEATH STRANDING』と安部公房「なわ」の関連について雑考します。

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『DEATH STRANDING』に出てくる名著「なわ」をざっくり雑考―絶望と希望、道具と人間の狭間にかかる「繋がり」
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「なわ」では親子関係についても語られています。これは非常に凄惨なもので、姉妹に対し無理心中を“ねだる”父親が現れます。「生きていたら、それこそ、一生痛い思いをしなければならんのだぞ!」といいつつ、媚びるように哀れに、子どもがいるから俺は死ねないんだ、一緒に死んでくれと頼むのです。実際のところギャンブル中毒で金が回らないというのが理由なのですが、自身の死についてすら責務がついて回り、自由にできない人間。それはひとえに「良くも悪くも、親と子が繋がってしまっているから」生まれることでしょう。

対する『デススト』も「親子の責務」について考えさせられる状況は、物語だけでなくゲーム中にも少なくありません。サムとBBは繋がっていて、プレイヤーにも責任を負わせます。無理な登山で滑落した時にBBに対して募る罪悪感……。BBをあやすか、荷物回収を優先するか。筆者はミュールな傾向があったので荷物を優先して罪悪感を募らせたものです。これこそ配達依存症……。ゲームシステムだけでなくストーリーでも親子の関係性は続きます。その在り方は「BB」「サム」という関係のみならず血の繋がりや育ての親、さらに「保護者/被保護者」として拡大解釈するなら人類規模の「責務」にまで発展します。ですが根底にあるのは「関係性/繋がり」そして「親子」です。

「なわ」では「親と子の責務」に対峙させられた姉妹が、縄という「道具」をもって死を回避しました。一方、『デススト』では「ストランド(縄)」という多義的なモチーフを中心に「道具/役割」であったBBやサムが、壮大でありはするけれども「親子」という責務に対峙していく。こう考えると、やはり『デススト』は、「なわ」、そして安部公房世界にかなり近いモノと言えるのではないでしょうか。

『デススト』のゲームシステムに生まれるポジティブさ「いいね!」

そしてこちらが特筆に値すると思うのですが、『デススト』のゲームシステムは「なわ」やストーリーで語られるようなネガティブさがありません。繋がることに一定の距離感を置き、プレイヤー同士の衝突がないように構築されています。

今風なゲームとして作ろうと思えば、プレイヤーがランダムマッチングで他人の世界に「ミュール」として出現し、「この世界のサムの荷物を奪って逃げろ!」みたいなマルチプレイ要素も実現できたでしょう。……ですが小島監督はそういうゲームデザインにはしませんでした。

SNSでの人々の異常な接近は、「空間同士の接合」と捉えられます。いうなればお互いに存在を認め合えない人間たちが同じ空間になった瞬間、人々は「棒」で叩きあいます。自分の空間から「悪いものを遠ざけるため」、本能的に叩きあうしかないのです。叩きすぎて時には人が死ぬことも悲しいことに珍しくはありません。小島監督はそういった所を理知と感覚で察知していたのではないかと強く思います。

さて、話は少し逸れますが最近のゲームで「棒で叩いて悪い空間を遠ざける」を実践したのは『DEATHLOOP』でしょう。もう「乱入しないでくれよ!」と叫びたくなるヒリついた感覚が面白く、ゲーム攻略の最大の障壁は、見知らぬオンラインプレイヤーでした。ただ、ここで忘れてはならないのが、オフラインモードに切り替えられることです。こちらも一定の距離感が設定可能で、つまり「ゲームとしてのコミュニケーション」を逸脱していません。

『デススト』はビデオゲームとカルチャーの大きな“ブリッジ”になった。

ゲームはネットとの親和性を見せ、極度に可能性が高まりました。なにしろ「ビデオゲーム」は幅が広い!ソロRPGから始まり、FPSやMMO、ソシャゲに、現実の資産と連結すらしそうなNFTを活用したモノまで、全てゲームです。

今後、デバイスが残るかぎり「ビデオゲーム」はこの世から無くなることはないでしょう。まさに「新たな文化が誕生」しているのです。「ゲームゲノム」ではゲームの過去を紐解きましたが、いまだそれは道半ば。ゲームの未来はうぶ声を上げてから50年を経てもなお、恐れすら感じるほどに可能性に満ちています。

筆者が子どものころ、『MGS』で「ミームってなんだ!?」と驚いた衝撃は忘れられません。ゲームから学んだことは数多くあります。今思えば『MGS』でミームという概念を得たから社会における人々の思考の伝播、安部公房に興味を持ったのかもしれません。

ゲームは一般的になった今でも「悪影響」と切り捨てられる傾向があります。ゲームはストーリーとプレイの両面から、今までのメディアではししえない体験を与えてくれます。これは“疑似的な体験”でもあり、同時に“作家性のある体験”、本当に悪影響ならもっと深刻なモノになるでしょう。

『デススト』の「ゲームゲノム」、そして小島監督の芸術選奨受賞は、ファンであるということを差し引いても一人のゲーマーとして嬉しすぎる出来事です。これから先、ゲームは消えることのないカルチャーになるでしょう。ゲームを芸術として云々……なんて固いことは言いませんが、「ピコピコ」としてコンセントを取り上げるムーブではなく、偏見なく、文化として正面から向き合ってくれる人々が増えること願うばかりです。


PC版『DEATH STRANDING DIRECTOR'S CUT』は3月30日にSteam/Epic Gamesストアで発売予定です。既にプレイをしている方も多いとは思いますが、これを機会に安部公房の「なわ」を読んでからプレイしてみませんか?


《高村 響》

ゲームライター(難易度カジュアル) 高村 響

最近、ゲームをしながら「なんか近頃ゲームしてないな」と思うようになってきた。文学研究で博士課程まで進んだものの諸事情(ゲームのしすぎなど)でドロップアウト。中島らもとか安部公房を調べていた。近頃は「かしこそうな記事書かせてください!」と知性ない発言をよくしている。しかしアホであることは賢いことの次に良い状態かもしれない……。

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