前作『シチズン・スリーパー』をプレイしたときの衝撃は今も忘れられない――ずっしりと洗練された二人称のテキスト、おんぼろ宇宙ステーション〈アーリンの瞳〉をめぐる魅力的な人間関係とアクチュアルな問題意識、そしてアイデンティティや居場所に苦悩する主人公への共鳴。ゲームそのものはシンプルなTRPG風のリソース管理ADVであり、ボリュームも10時間あればクリアできるコンパクトなものだが、その重厚かつクィアなプレイフィールは筆者をすっかり魅了した。
さて、その『シチズン・スリーパー』から一年。2025年の年始にリリースされた続編『シチズンスリーパー2: スターワードベクター』が、すばらしいスピードで日本語版を発表してくれた! ファンとしてはありがたい限りである。
今回は筆者のほうからGame*Sparkに「レビューを書かせてくれ」と熱望し、このような記事を発表させてもらう機会を得た。このページを開いてしまった読者諸氏においては、申し訳ないが宇宙ステーション住まいの厄介な酔客に絡まれたと思って、本稿を最後まで読んでいっていただければ幸いだ。なお、以下にはラストシーンまでのネタバレが含まれているので、要注意である!
※記事の制作にあたり、パブリッシャーよりSteamキーの提供を受けています。

さて、前作同様、本作の主人公もまた一人のスリーパーである。スリーパーとは、企業に身体を売り渡した誰かから複製された人格と、組み立てられた機械のボディを持ち、企業に従属する形で過重労働に身を投じる“擬似生命体”を指す。主人公は企業の支配から逃れるべく危険を犯して自ら再起動を試みるも、自分を支配する冷酷なギャング=レインに邪魔されてしまい、記憶を失ったまま逃避行へと傾れ込むはめになってしまった。自分は何者なのか? 誰を信じればいいのだろうか? 何もかもを見失ったスリーパーが、小さな宇宙船〈リグ〉の船長としてやぶれかぶれの旅路を進めるところから、本作の物語はスタートする。
前作では〈アーリンの瞳〉という宇宙ステーションがひとつの舞台として固定されていたが、今作の魅力は広大な宇宙を小さな宇宙船ひとつでえっちらおっちら往来せねばならないという点だ。さらにあちこちで発生するイベントに応答していくと、宇宙船のクルーも増えていく。物語はより流動的に、かつ自由度を増しているというわけだ。〈アーリンの瞳〉に辿り着く人びとの理由がそれぞれに垣間見得た前作に比べ、本作ではクルーたちの「旅立つ理由」のほうが美しく映える。
データを通じた星系の歴史編纂に関心を持つ“データ狩り”ジュニ、過保護な兄からの自立を望むニアなど、むしろ「移動すること」にキャラクターたちのアイデンティティが光るのである。スリーパーとしては、翻って考えるほかない――では、自分は? いったい何を望んで、どこへ行くべきなのだろうか?

目指すべき座標がないまま、誰を信じるべきなのか迷い、どうにか居場所を構築していくという点において、「シチズン・スリーパー」は極めてクィアな作品だ。現実のクィアも同じように苦しむからである。身近なロールモデルの不在、「もしかしたらこの人は自分のような人間のアイデンティティやセクシュアリティを侮蔑するのではないか」という恐れを前提にするほかない人間関係構築、その果てでわずかばかりの安寧をフラッシュみたいに浴びて、日々を生き伸ばしていく。そのような〈リソース不足の生〉の感覚を強烈な形で追体験させるのが前作「シチズン・スリーパー」だった。
だが『2』では少し問題系が異なる。主人公には最初から自分を信頼してくれる相棒=セラフィンが存在する。宇宙船〈リグ〉は絶対的な安息の地としていつでも主人公を迎え入れてくれる(燃料をたっぷり要求するじゃじゃ馬ではあるが)。さらに前作では生命維持のために常に調達し続けなくてはならなかった安定剤も、今作では必要がない。つまり、(身体の劣化という問題が依然として存在するにせよ)一定のリソースが約束された状況で、ストーリーが展開されていくのだ。その状態で、マターとして浮上するのは何か?――連帯である。

本作でスリーパーは、何人もの(正確には人ではない存在も含まれるが、ここではあえて人と書いておこう)どこか自分と似た者たちとすれ違う。すでに軽く触れた通り、道行で〈リグ〉に乗り込んでくれるクルーたちはみな魅力的だ。機械工のブリスなど、前作ファンならば「ああ、あの時の!」と言いたくなるような懐かしい出会いもきちんと用意されている。ミッションではクルーを選んでともにダイスを振りながら課題へ立ち向かうことになるが、選んだキャラとミッションによって別個に会話が発生するため、周回プレイも視野に入れてぜひさまざまなクルーと絡みに行きたいところだ。今作ではスリーパーの初期ステータスの選択によって明確に「うまくできないこと」が発生するため、その点においても、クルーをうまく頼ることが肝要である。

しかしながらストーリー上特に重要なキャラクターは、もう一人のスリーパーであるフリントや(フリントはクルーになってくれる)、自分の中へ入り込んできた〈中枢シップマインド〉のプロトコル=〈監視者〉たち、逃走の果てに宇宙ステーションごと爆破されたドローンマインドといった、意識あるままに人と機械のあわいに立っている存在だろう。しばしば破綻のさだめを背負っている彼ら《they》を前にして、スリーパー/プレイヤーは自らの生の軌跡をつい顧みることになる。繋げた手、繋いでも離すほかなかった手、繋げなかった手。たくさん得て、たくさん失う。それでも物語は、人生は、続いていく。続いていってしまう。その苦々しさが、物語が進むたびに胸に迫ってくる。


『シチズン・スリーパー』の無視すべきでない大きな魅力は、「ミッションが失敗しても、その結果に応じて物語が進んでいく」ことだ。失敗したらそこで終わり、ではない。失敗したなら失敗したなりに交わすべき言葉があって、選ぶべき別の手立てが用意されている。その設計と、たくさんの流動的な出会いに溢れた今作のストーリーテリングは、すばらしいかたちで噛み合い、先に述べたような「生きることの苦味」をぞんぶんに輝かせてくれるのだ。
これを読んでいるあなたにだって、きっと存在するだろう――自分の影を見た相手と、不意に心が通った記憶、あるいは通わなかった記憶が。決して永遠ではない/なかったそれを噛み締めるとき、われわれはいつもどうしていいかわからない。その理解不可能性によって繰り返しずたずたになっていく自分を抱き締めること。そのようにして生まれ変わり続けること。実はそれそのものが〈生〉と呼ばれるものなのではないか、とふと考える。

実際、物語が最後に辿り着くのも、自己変容の渦へ飛び込んでいく道だった――つまりスリーパーは、旅の果てにもう一度〈再起動〉に挑むのである。目覚めたときには自分ではないものになっているかもしれない、というモチーフじたいは「攻殻機動隊」のような古典的名作を想起させるが、自らダイスを振り、二人称のテキストを突きつけられ続けてきたプレイヤーからすれば、この展開は新鮮に自分ごとだろう。
クルーたちはこれからすべてを失うかもしれないスリーパー/プレイヤーに全力で寄り添ってくれる。その事実だけで、実のところ旅の価値はじゅうぶんに果たされたのだと思う。スリーパーは危険な賭け、だが生き延びるための賭けとしての〈再起動〉へ身を投じ、物語はそこで幕を下ろす。

われわれは自己変容を繰り返している――ときには決してリニアではない時間(クィア・テンポラリティ!)を蛇行し、もはや過去のおのれを忘却してしまうことすらある。だがその道行に、自分と連帯してくれる誰かが共に存在してくれるなら、自分の生の軌跡は決して消え去りはしないのだ。
もちろん、それが常に喜ばしいこととは限らないだろう。忘れてほしいのに追いかけてくるような過去もあれば、うまくやりたかったのにうまくやれなかった記憶でえんえん苦しむこともある。だが『シチズン・スリーパー2』は語る――「あなたの人生は成功と同じだけの過ちによって形作られ、それがあなたをこの場所へと導いた」と。

今ここにいること。これからどこかへ行くこと。絶え間なく変化すること。そのどれもがどうしようもない被弾で、そのどれもが美しい生の明滅だった。この宇宙にひとりぼっちだったはずのスリーパーは、今、またどこかへ旅立とうとしている。今度は、誰かと手を繋いで。











