
■「大きな物語」の終わり
次に、2009年に発売された『ファイナルファンタジーXIII』です。
本作は当初、『アギトXIII』『ヴェルサスXIII』とともに「FABULA NOVA CRYSTALLIS」という共通の世界観を持った作品群として発表されました。これほど壮大な世界観は、これまでのFFシリーズではなかったものでした。これら作品群はそれぞれ後に『零式』『XV』として形を変えていくことになります。
「ファブラ ノヴァ クリスタリス」という壮大な世界観(=大きな物語)に対し、ユーザー側の反応はどのようなものだったでしょうか。2006年のE3での衝撃的な発表から、開発状況の進展のないまま月日が流れるにつれ、作り込まれた世界観はしばしば揶揄される対象となっていきました。その象徴ともいえるワードが「パルスのファルシのルシがコクーンでパージ」です。
フィクションにおける「世界観」とは、その仮想世界の設定のことを指します。その世界ならではの造語によって仮想世界を作り込むことがしばしばありますが、それが際立ってしまったのが本作であり、その象徴とも言えるのが、本作ならではの用語の多さを挙げつらった「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」というワードでした。
ゲームの内容に関する情報がほとんど出てこないまま、「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」的な設定だけが先行してしまったことで、失望の矛先が大きな物語に向かっていき、世界観の一部を抜き出した「「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」という言葉が批判の的となったのです。
この矛は主人公にも向けられていきます。「『光速』の異名を持ち重力を自在に操る高貴なる女性騎士」といった記号をまとわされ、物語における役割が分からないまま放置されてしまっていたライトニングさんは、大仰なキャッチフレーズと特徴的なビジュアルによって、思わぬキャラ立ちを強いられることになったのです。
■「自由主義」という黒船
さて、発表から数年、ようやく発売にこぎつけた『FFXIII』に待ち受けていたのが、「海外RPG」という黒船でした。その先頭を切った『The Elder Scrolls IV: Oblivion』は、『FFXIII』発表の少し前の2006年3月に海外で発売、およそ一年半後の2007年7月に日本版が発売されました。
オープンワールド、膨大なクエスト、キャラクターメイキング、AIを持ったNPC……高い自由度を持った作品に触れた我々ユーザーは「これこそがRPGだ!」と快哉を叫ぶことになったのです。こうした流れは、これまで海外ゲームに疎かったユーザーにも広がっていきました。
一方で、こうしたユーザーの多くが『The Elder Scrolls』という壮大な世界に対しては無知で、さらに無関心であったかもしれません。オブリビオンもスカイリムも大好き! だけど『TES』の世界についてはあまり知らない、という人も多いのではないでしょうか(私もそのひとりです)。
こうして、海外発の「自由主義」の広がりという逆風の中で発売された『FFXIII』は、その作風もあいまって、これまでの国産RPG以上に国内外から「リニア」「一本道」という言葉で批判されることになってしまいました。“ゲームとして”の広がりを持たない一方的な物語は、ユーザーを置き去りにする壮大な世界観とともに、批判される対象となっていきます。膨大なクエスト群で物語への需要をまかなった『Oblivion』と比較され、「一本道」の『FF13』は、物語(というコンテンツ)の少ないものとして認識されることになっていったのです。
このような状況の中で、「ファブラ ノヴァ クリスタリス」という大きな物語と、それに興味を失ったプレイヤーのずれは決定的なものとなっていきます。実際に熱心にプレイした人はともかくとして、我々の多くが「パルスのファルシのルシがコクーンでパージ」という言葉を理解しようと努めることはありませんでした。
ただ、世界観への興味の薄れは『FFXIII』に限ったことではなく、『Oblivion』でも実は似たようなものでした。我々は10年以上の歴史で培われた『TES』の壮大な世界観ではなく、個別の作品の様々なクエストを通じ、自分だけの物語を紡ぐことで、結果としてその世界の断片を味わっていったのです。ひとつの大きな物語を追いかけることから、たくさんの小さな物語をこなしていくことへの変化、その象徴が『FF13』であり『Oblivion』なのです。
■物語の行方
第一回で書いたように「ゲームにおいて物語は重要で、その物語を十分に楽しめるのがRPG」だったはず、でした。しかしそのRPGにおいて、物語が徐々に失効していっているのではないか? という疑問をもとに、ここまで、FFシリーズを通じ物語の変容を書いてきました。かなり早足で説明不足も多々あったかもしれません。
サブイベントの充実によるメインの物語の軽視、主人公とボスの関連づけによる物語の「セカイ化」、「神の視点」の獲得による物語の客観視、コミュニケーションによる「外部」の物語、外様になる主人公とスケールのずれ、そして「大きな物語=世界観」の終わりと小さな物語消費への転換。なお、こうした物語の変容はFFに限った話ではなく、あくまでその象徴としてFFがあった、ということです。RPGの中心にいられなくなった物語は、今後どのような形へ向かうのでしょうか。
次回はゲームにおける「キャラクター」についてもう少し考えてみたいと思います。




