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【JRPGの行方】第4回 『FF』から見る「物語」と「キャラクター」(後編)

前回に続き、『ファイナルファンタジー』シリーズに焦点をあて、「物語」の構造や「キャラクター」の変容について書いていきたいと思います。これまで『FF7』から『FF10-2』までを取り上げてきました。今回は『FF11』から。

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【JRPGの行方】第4回 『FF』から見る「物語」と「キャラクター」(後編)
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前回に続き、『ファイナルファンタジー』シリーズに焦点をあて、「物語」の構造や「キャラクター」の変容について書いていきたいと思います。これまで『FF7』から『FF10-2』までを取り上げてきました。今回は『FF11』から。

■物語は「外部」から

シリーズ初のMMORPGとなった『ファイナルファンタジーXI』(2002年)について触れておきましょう。MMORPGは、とりわけ「物語」に関していえば、スタンドアローンのRPGと似て非なるジャンルだいえます。そのためきちんと取り上げるなら、これだけで紙幅が尽きてしまいます。

これまでの記述と照らし合わせて考えるなら、まず基本的に「物語を終わらせる」ことがありません。物語の終わり=プレイヤーの死は訪れることがなく、プレイを止めて(マルチエンディングの途中のように)ゴーストとして留まり続けるか、あるいは(メタレベルからの)世界の破壊である「サービス終了」とともに消滅するか、のどちらかです。その世界は、強さ自体を追求し寄り道を繰り返す一方で、ラスボスを倒してクリアするという責任がいつまでも遂行されない「永遠のモラトリアム」とでも呼べる矛盾も抱えています。

そのような世界では所与の物語が力を持つことはありませんが、「他のプレイヤーとのコミュニケーション」というスタンドアローンにはない要素によって「個人的な物語」が無数に生まれていきます。ゲームのデータ上は同じ物語でも、協力する他のプレイヤーとのやりとり次第でその受け止め方は様々に変わっていき、コミュニケーションそのものが物語を生むこともあります。その物語は完全にプレイヤーのものであり、主人公は完全にプレイヤーです。

スタンドアローンのRPGが「物語を提供しそれを享受するもの」だとすれば、MMORPGは「環境を提供しそこで物語を生み出すもの」だといえるでしょう。

■そこに「きみとぼく」はいない

2006年に発売された『ファイナルファンタジーXII』について。本作ではこれまでの「セカイ系」作品とうってかわって「戦争」「政治」「国家」といったキーワードが頻繁に登場します。『きみとぼく/社会領域/世界の危機』という世界の三項における「社会領域」の復権です。本作のヒロインといわれるアーシェによる、祖国解放と帝国への復讐が物語の核となっています。

ここで強引にセカイ系の三項に本作をあてはめようとして、ふと考えます。本作の「きみとぼく」はいったい誰なのか? 主人公といわれているヴァンが「ぼく」で、「きみ」はその幼なじみのパンネロなのか? いや、物語の中心であるアーシェこそが「きみ」なのか? いやいや「この物語の主人公さ」と言っているんだから、バルフレアとその相棒のフランなのか……?

どうやらこの図式にあてはめるのは難しそうです。「世界の危機」もよく分かりません。ラスボスのヴェイン&ヴェーネスも全体的な「世界」への危機と呼ぶほどのスケールは感じず、より小さな世界で主人公たちと対立しているにすぎません。

本作で「主人公が空気」と呼ばれるゆえんは、ヴァンが「社会領域」とも「世界の危機」とも深い関わりを持たない外様の人間だからですが、もうひとつの理由としては、本作が政治や国家を中心とした社会領域を描くあまり、より大きなスケールの世界の危機に、ヴァンたち主人公を対峙させないまま終わってしまったことが挙げられます。ヴァンは国家とも世界とも関わるきっかけを持たないまま、世界の片隅で生きる傍観者として物語を終えていくのです(それを補うためにもDSの『レヴァナント・ウイング』があるのですが)。

その一方で、サブコンテンツとして用意されたモブ討伐に出てくる「神の手に余るほどの強大な力を持つ神獣」と呼ばれる隠しボス「ヤズマット」の存在があります。本作の世界観からするとあまりに壮大な設定で、その強さが表現されています。一般にサブコンテンツはやり込み要素として用意されているものが多く、強大な敵に見合うような設定になってしまうのは仕方のないことなのですが。

ただ、物語の本筋と比べて圧倒的なスケールのサブコンテンツによって、国家や戦争といったものがさらに小さく感じられるのも確か。神や竜といった存在と、国家や戦争といったものでは、前者のスケールが上回るのは明白です。

このスケールの違いの狭間で、主人公たちと物語とのずれが生じてきます。神の手に余るほど危険な存在を討伐した主人公たちが、国家間の戦争で剣をふるう……。これまで明確な「世界の危機」が存在したために見えなかったスケールのずれが、国家をフィーチャーしたために顕在化したのが『FF12』です。私は本作において、まるで世界の危機に際したセルゲームを終えた後、一般人に混じって天下一武道会に出場するZ戦士たちのような場違いでユーモラスで平和な感じを、ヤズマットを倒したあとで最終決戦に赴く『FF12』の主人公たちに抱くのです。

《Kako》
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