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【ゲーム批評の現在地】第4回:類型化する物語とどう向き合うか

第4回では「構造」をキーワードにして、実際にゲームをどのように見ればいいか考えます。ゲームにおいて重要な要素である「物語」が類型化していく中で、それをありのままに読解しても意味がありません。

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【ゲーム批評の現在地】第4回:類型化する物語とどう向き合うか
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しばしばゲームは映画と比較されてきました。「まるで映画のようなゲーム」というクリシェは、かつては高い映像表現に対する賛辞の言葉でありながら、今では自由度の低さに対する批判の言葉となっています。

長い歴史を持つ映画の言説では、しばしば映像、音楽、監督、演者、物語といった要素分解に基づく分析が行われています。カメラワークや音響についての分析、キャストの演技に対する評価、監督の意図の読み取り、そして物語と現実を対応させた「自然主義的な」読解。この「自然主義的な読解」という言葉は、批評家の東浩紀氏の著作『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書、2007年)からの引用です。

『ゲーム的リアリズムの誕生』を簡潔に紹介するのは難しいのですが、ひとつはポストモダン状況がもたらした「ゲーム的リアリズム」(キャラクター/プレイヤー、物語の複数性、生死の反復といったゲーム的な要素による現実観)をゲーム外の作品、ひいては社会に見出そうとする試み、といえると思います。そこでは実際に『ひぐらしのなく頃に』や『Ever 17』などいくつかのゲーム作品についても書かれています。

自然主義と環境分析


東浩紀氏が『ゲーム的リアリズムの誕生』で、文芸評論の主流として挙げた「自然主義的な読解」。物語と現実を対応させ、描かれているテーマから現実の問題を考えるような読解です。描かれる物語と現実を対応させると、物語について語ることが現実という外部について語ることになります。戦争が描かれていれば命の尊さを、恋愛が描かれていれば愛の尊さを、政治が描かれていれば現実の政治を。文芸評論はもちろん、映画においても、作品に込められたメッセージを現実と対応させる読解はしばしば行われています。

ゲームにおいても、とくにレビューにおいてはこうした言説が一般的です。映像、音楽、キャラクターといった要素分解を行い、世界観や物語を、現実と対応させて語る。冒険譚から友情や愛の素晴らしさを見るものから、セクシャリティや暴力表現を現実にあてはめて考察するものまで、それは見えるものを素朴に捉える態度です。

東氏はこれとは別に「環境分析的な」読解を提案しています。

自然主義的な読解は、作家がある主題を表現するためにある物語を制作し、そしてその効果は作品内で完結していると考える。しかし、環境分析的な読解は、作家がその物語に意図的にこめた主題とは別の水準で、物語がある環境に置かれ、あるかたちで流通するというその作品外的な事実そのものが、別の主題を作品に呼び込んでくると考える。そして、そのような複合的な視点の導入によって、自然主義的には単なるファンタジーで、荒唐無稽な幻想にすぎないキャラクター小説のなかに、まったく別のメッセージを読み取ることが可能になる、というのが筆者の考えだ。

同著でも分析が行われている『ひぐらしのなく頃に』でいえば、伝奇ミステリーとして各編の物語について考察するのが、自然主義的な読解です。

一方で、ゲームにおいて、最終的にトゥルーエンドに導く役割を持つ「プレイヤー」という物語外部の存在を、物語内部に入れ込んだ「ゲームのような小説」という構造を、ゲーム的リアリズムのある「環境」から分析する。そこから見出されるものが「構造的主題」であり、それを見出すのが環境分析的な読解だと言えると思います。

類型化と平板化はポストモダンの物語の傾向であり、それを分析するためのツールとして、東氏は環境分析を提示しました。ゲーム的リアリズムを持ったキャラクター小説、最近ではより直截的にファンタジーRPGを模した「異世界もの」で描かれている物語は、書かれている物語の外にある、そうではなかった物語を常に読者に想定させるような構造を持っています。

実際に書かれている物語よりは、キャラクターを含めた設定に重点が置かれ、設定が一目で分かるようなタイトルがつけられます。自然主義的で素朴な読解をすれば、「異世界もの」は大量生産される類型化した物語に過ぎませんが、それが大量生産される現実という環境を挟みこめば、違った見方ができるはずです。

『ゲーム的リアリズムの誕生』では、分析対象に「ゲーム」が含まれていても、それは「ボタンを押すと反応する」という点でのゲーム性を希釈することで、かえって「キャラクター/プレイヤー、物語の複数性、生死の反復」といったゲーム的な要素が物語の中で顕在化する、美少女ゲームのようなジャンルに限られていました。東氏は「ゲームのような小説」(ライトノベル)と「小説のようなゲーム」(美少女ゲーム)が鏡像関係にあるとしています。

ゲームの「構造」


ではもっと広範に、様々なゲームについて語るためにはどうすればいいか。それが「ゲームについての言説」である以上、描かれている「物語」を素朴に分析しても「ゲーム」について語ったことにはなりません。そのゲームがゲームたる部分、つまりゲームの「構造」について語るべきです。「リアリズム」を一度切り離し、所与のものとなっている「ゲーム的」な部分を調べるところから始めなければなりません。

類型化と平板化は、ゲームの「物語」でもうかがうことができます。大量にリリースされるスマホの”RPG”では顕著で、今や、そういった物語だけについて誰も語ることはありません。それに意味がないとみんな分かっているからです。しかし、そういった物語でも、ゲームの「構造」から見れば、語ることがあると思います。

ここでいうゲームの「構造」とは、単なるゲームシステム(=ゲーム性)のことではありません。システムと物語とプレイヤーの三者の関係、各要素の「組み合わせ方」です。ゲームにおいては、物語だけでなくゲーム性もジャンル化/類型化していく傾向にありますが、物語との関係を見ることで、新たな分析の可能性が出てきます。

ジャンルの壁を超えて


物語とは、テキストの集合体ではありません。世界観やキャラクター、ジャンルにも宿ります(ミリタリー、SF、ホラー、クライムといったもの)。RPGやノベルゲームといった、わかりやすくテキストがあるものはもちろん、FPSやアクションにも物語があります。そういったジャンルにおいては「ゲーム性が物語にどういった影響を与えているか」という分析が可能です。たとえば『バイオハザード』では、独特の操作系や制限つきのセーブシステムによって、ホラーゲームとしての分析が初めて意味を持ちます。

プレイヤーは現実ではゲームのルールに束縛されながら、ゲームの中では物語に介入していく。ゲームのシステムと物語とプレイヤー、三者の関係を見ていくことが必要です。

では、スポーツゲームはどうか。現実にいる選手をプレイヤーキャラクターとして使う場合は、選手をとりまく現実の「物語」を追体験することができます。そうでなくても、ゲームの構造に注目すれば、現実とゲームの対比という方法で分析ができるはずです。サッカーゲームにおいて、選手としてピッチでプレイしているはずのプレイヤーが、実はテレビを見ている観客の視点にあり、それは監督や神といったさらなる視点を巻き込んでいる、あるいは鳥瞰視点を持つ一流選手の視線そのものだ、といった分析は、ゲームの構造によるものです。

これらはキャラクター/プレイヤー、物語の複数性、生死の反復といったゲーム的な要素があって初めて成立します。ゲーム機で扱うもの、ゲームという区分で紹介されているものが全て「ゲーム」だとしたとき(音楽、知育、フィットネス、図鑑など)は、成立しないことも当然あります。

ゲーム固有の言説としての「ゲーム批評」


この構造を見る方法は、さやわか氏の『僕たちのゲーム史』のテーマである「ボタンを押すと反応する」(システムとプレイヤーの関係)と「物語をどのように扱うか」(システムとプレイヤーと物語の関係)を言い換えたものだと言えるかもしれません。

要は、物語の自然主義的な読解でもなく、構成する要素の分解でもなく、ゲームの「構造」に注目すべきだということです。そこで初めて、文学でも映画でもない、ゲーム固有の言説となります。

画面に表示されているものを素朴に捉えるのではなく、画面には映らない「(物語と)ゲームとプレイヤーの組み合わせ方」に注目する。そして、外部に接続する(環境と対応させる)。ここで初めて「ゲーム批評」と呼べるものになると思います。

そこではゲームが持つ最大の特徴である「キャラクター/プレイヤー」の存在が欠かせません。プレイヤーこそが、ゲームの内と外を結ぶ手がかりになるからです。プレイヤーがゲームの外部にいるか、内部にいるかがプレイヤーとプレイヤーキャラクターの違いですが、プレイヤーを無視してキャラクターだけに言及したものは、ゲーム批評とは呼べません。

ゲーム史のメルクマールとなるような作品は、こうした分析を必ずしも必要としません。それ自体の革新性を語ることで、ゲーム史とその外部の現実に接続するからです。そうではない、歴史に名を刻まないゲーム、あるいはこれから刻むかもしれない、今、目の前にあるゲームについて語るために必要なのです。

ゲーム批評の目的は、「優れた物語を取り上げる」「ゲームの進化を語る」「ゲーム自体が持っている批評性を炙り出す」ことだけではありません。一見すると類型的で陳腐な作品でも、構造と環境については語るべきものがあると思います。

■参考文献・サイト

東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社(講談社現代新書)、2007年
《Kako》

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