【ゲーム批評の現在地】第3回:ときに無慈悲なゲーム史たち | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

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【ゲーム批評の現在地】第3回:ときに無慈悲なゲーム史たち

第3回は「ゲーム史」について。ゲーム史的な言説は充実しており、批評として精度が高いものも生まれています。ただし、ゲーム史的な言説がゲームを語る上で万能なのかといえば、そうではありません。

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【ゲーム批評の現在地】第3回:ときに無慈悲なゲーム史たち
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ゲームについての言説はいろいろなものがあります。ゲームの情報を伝えるもの、特定のゲームを肯定/否定するもの、過去から現在までの作品を紹介するカタログ的なもの、ハード・ソフトを合わせ産業としてゲームの歴史を伝えるもの、さらにゲームデザイン論やゲーム研究など。

ゲームへの好悪を語る感想文、ゲームについて分析するゲーム研究、ゲームの歴史を伝えるゲーム史。このどこかに批評はあるでしょうか。

かつて日本で批評といえば、文芸批評でした。何らかの理論を用いて作品を分析し、そこから透けて見える社会や人間、政治を語る。そこから広義の文化批評、さらにアニメやマンガなどのサブカル批評と呼ばれる分野が盛んになりました。サブカル批評は80年代のニューアカからゼロ年代を経て、現在に至ります。外部との接続、すなわち「越境性」が批評の特徴です。

ゲーム史と批評


「現代のゲーム論の『古典』の出現である。」

これは、評論家の中川大地氏が手がけた『現代ゲーム全史―文明の遊戯史観から』(早川書房、2016年)に寄せられた、思想家の中沢新一氏の言葉です。中沢氏には連載第1回でふれた『MOTHER』の他にも、『ゼビウス』や『ポケットモンスター』など、ゲームと外部を接続する言説がいくつもあります。

本著『全史』は、私たちも知っているアタリやファミコン、ドラクエ・FF、プレステといったメルクマール(目印)を網羅的に紹介するだけでなく、その前後で何があり、どうしてメルクマールとなったのかを詳細に伝えている点で、まずゲーム史の資料として出色です。とりわけビデオゲーム黎明期、とくにビデオゲームがその領域を確立するまでの道のり、ファミコンという誰もが知る有名な目印への道のりについての筆致は鮮やかです。

さらに、ロジェ・カイヨワの遊戯論を導入した研究的視点、日本/アメリカの経済や政治状況を援用する比較文化論的視点、社会学者の見田宗介氏が提唱した〈理想の時代〉〈夢の時代〉〈虚構の時代〉、評論家の宇野常寛氏の〈仮想現実の時代〉〈拡張現実の時代〉に、未来への展望として〈複合現実の時代〉を接続した、社会学的視点を導入しています。

ここでいう仮想現実・拡張現実は「PlayStation VR」や『ポケモンGO』といった狭義のVR・ARではなく、広くゲームと現実の関係を示す言葉として使われており、今から20年ほど前、仮想現実では『ウルティマオンライン』、拡張現実では初代『ポケットモンスター』がその萌芽として挙げられています。経済や社会契約を模倣する、現実のような仮想世界と、生活空間での贈与による現実世界の拡張。以降の歴史も「仮想現実・拡張現実」という言葉をふまえて記述されています。

本著は、タイトルにもあるような「遊戯史観」という外部の視線を導入したことで、ゲーム領域の内部にとどまる産業史やカタログにはない越境性を持っています。これまで『全史』のような本がほとんどなかったからこそ、ゲーム論の「古典」と言いうるのだと思います。

これまでも言及してきた、さやわか氏の著作『僕たちのゲーム史』との比較でいえば、『全史』がゲームのみならず人間の歴史を俯瞰する、シミュレーションゲームのような神の視点、『僕たちの』が様々な文献を手がかりに歴史をたどる、RPGの主人公のような視点で書かれているといえるでしょうか。『僕たちの』は、批評的な語りをあえて避けている気がするのですが、それは主人公視点で進むRPGのような手触りを大切にしているからかもしれません。

様々な角度から行われる、ゲーム史についての言説は非常に充実しており、テクノロジーの進化とともに、これからも更新されていくはずです。

私たちのゲーム史


ただ、ゲームの歴史において、政治、経済、社会、科学技術、どんな角度から見ても、主語はほとんどハード/ソフトかそれを作った会社/作家です。本論から逸れますが、大文字のゲーム史のそばで、ユーザーである私たちがどう変わったのか。それを書くことも必要になるはずです。

ゼロ年代半ばからの短い歴史でも、これまでも繰り返されてきたゲーム機戦争において、ネットの普及により信仰者たちが顕在化し、同調と排除を繰り返しながら「宗教戦争」として激化。細かい数字の差や言われて初めて気がつく質の差に拘泥し、全肯定と全否定の言説が氾濫しつつ、純粋な信仰心なのか、つながるためだけにやっているのかわからなくなる「ゲハでベタとネタの区別がつかなくなる」状況に。その一方で、海外礼賛とJRPG批判、多様化するゲームサイトによる情報の空転が起こり、スマホのガチャに象徴される拝金主義への嫌悪もあいまって、ゲームにおける物語の地位が低下していく……といったゲーム史があります。

PS3、Xbox 360、Wiiという当時の”次世代機”を舞台にした「宗教戦争」については、海外の論調にあわせるように、ハードの売上げを盛んに報じていたGame*Sparkも、それを書いていた私もその一端を担っていました。その影響は今も消えることはありません。

共事態の難しさ


言語学の分野で使われる「通事態・共事態」という言葉があります。時間軸を植物の茎に見立てて、その茎に沿って切断したところを観察する通事態と、水平に切って現在だけを広く観察する共事態。ゲーム史はまさしく通事態といえますが、一方で、ゲームの領域で共事的な視点はあまり生まれていません。

ゲームという領域の成長の速さが、共事的視点を不可能にしていることは否めません。つまり、水平に切って全体をつぶさに観察している間に、その断面はすぐに腐っていくのです。たとえば2018年という今、ゲームという領域の全てを観察しているうちに、領域は大きく変容してしまい、その観察は普遍性を持たないものになってしまうでしょう。この成長の早さが、ゲームの言説を困難にしていることは明らかです。言説は往往にして、テクノロジーの進化の一歩後ろを歩いてきました。

ゲーム史的な言説においては、実際に作者がプレイしたかどうかはともかく、極論として「プレイしなくても」書くことができます。これは、雑誌の『ゲーム批評』が「ソフトを終わらせ、制作者の意図を読み取る努力を前提」としていたのとは真逆だといえます。

もちろんゲーム史の意義からして、プレイしたかどうかは関係なく、好きなゲームを語るためにあるわけでもありません。さやわか氏は『僕たちの』で以下のように述べています。

この本を書くことで、僕の好きなゲームについての熱い気持ちをいっぱい書けるのだろうと、最初はそう思っていました。だけど、それはできませんでした。(中略)歴史について書くということは、「何を書くか」よりも「何を書かないか」の方が重要なのです。
この本がすべきなのは、僕が好きなゲームを賞賛することでも、人気のあったゲームを順に並べていくことでもありませんでした。僕は「ボタンを押すと反応する」「物語をどのように扱うのか」という2つに注目しながら、各時代を的確に説明できるようなゲームについてだけ、筋道立てて言及していく必要がありました。

ゲーム史には歴史という過去を見ることで、現在と未来を展望する役割があります。しかし一方で「歴史上のメルクマールからは離れた作品」、あるいは今「私たちの目の前にある作品」に対して、ゲーム史は無慈悲であることも事実です。無理にゲーム史に結びつけようとすれば、細部は見逃され、固有性は無視されます。

ゲーム史では語ることができないゲームを、私たちが(レビューではなく)批評として語るためにどうすればいいか。そもそもそれに意味があるのか。次回はそのあたりを考えてみたいと思います。

■参考文献・サイト

さやわか『僕たちのゲーム史』星海社(星海社新書)、2012年
中川大地『現代ゲーム全史―文明の遊戯史観から』早川書房、2016年
《Kako》

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