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【ゲーム批評の現在地】第1回:ゲーム/批評

ゲームについて「書く」というのは専門家やライターだけのものではありません。「ゲーム批評の現在地」と題した本連載は、「批評」というわかりにくい言葉を通じ「ゲーム」について考えたものです。批評とは、ゲーム批評とはなにか、ゲーム批評は今どうなっているのか。

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はじめに


ゲームについてなにか「書く」というのは専門家やライターだけのものではありません。ゲームレビューやコメント欄、そしてゲーム実況など「話す」行為も含めれば、いろいろなユーザーが、いろいろなところで何か考えていることを不特定のだれかに表す機会があります。「ゲーム批評の現在地」と題して5回にわけて掲載する本稿は、「批評」というわかりにくい言葉を通じ「ゲーム」について考えたものです。

批評とは、ゲーム批評とはなにか、ゲーム批評は今どうなっているのか。具体的に作品について分析するものではなく、抽象的な話がほとんどです。文字ばかりが長々と書かれているので、時間があるときにお読みください。

ゲーム批評とはなにか


みなさんは「ゲーム批評」という言葉を聞いて、何を想像しますか。メタクリ、それともクロスレビュー、あるいは『ゲーム批評』?

メタクリ(Metacritic、様々なレビューを集めた海外のサイト)にしても、『週刊ファミ通』で知られるクロスレビューにしても、通販サイト大手のAmazonのユーザーレビューにしても、批評という言葉は「批判したり評価したりすること」という意味でレビューと同義に捉えられることがしばしばあります。

『ゲーム批評』は、94年にマイクロマガジン社から創刊された雑誌。「公正な立場を確立するため、広告を入れません」という宣言を掲げ、「ソフトを終わらせ、制作者の意図を読み取る努力を前提」として、建設的な作品批評を行うなどしていました(「」内は『ゲーム批評』創刊号の宣言から引用)。ここでは、中立性、客観性を持ったジャーナリズムに基づいた言葉が「批評」として捉えられています。

私が「ゲーム批評」という言葉で一番に思いつくのは、『マザー百科』です。

『マザー百科』とは、1989年に発売された、おなじみ任天堂のRPG『MOTHER』について書かれた書籍で、従来のガイドブックという形式にとどまらず、多数の読み物を掲載した本です。そこには80年代前半に華々しくデビューした、人類学者の中沢新一氏や小説家の高橋源一郎氏が寄せたコラムがあり、ジャック・ラカンの精神分析理論である「現実界・象徴界・想像界」を交えた言葉や、文芸批評のようなアメリカ文学と絡めた言葉があります。

こうした本において、わたしは「知識人によって書かれた専門的な言葉」に魅力を感じていました。身もふたもない言い方ですが「小難しい言葉で書かれたものが批評である」と考えていた部分が確かにあったのです。その感覚は今も大きく変わっていません。

インターネットの普及によって誰もがゲームについて発信できる時代に、内容の質を無視して「書くという行為」に限定すれば、メディアや専門家の優位性はありません。とりわけ説得力を与える効果のある”印刷された活字”によって保たれていたメディアとの差は、ネット上では喪失しました。むしろメディアよりはユーザーのほうが中立性はあるし、知識人よりコアなゲーマーのほうが「ゲームについて」は詳しいのだ、という見方もできます。

ゲームとはなにか


そもそもゲームとは何か。ここでは広義のゲームではなく、ビデオゲームおよびその周辺について「ゲーム」としてとりあげています。

以前、一部の海外サイトで「ゲームはアートか」という議論がなされていました。アート=芸術というと、よくわたしたちは独特なグラフィックや奇異なゲームシステムに対し「これはアート的ゲームだ」といって片づけてしまうことがあります。これは「アート」という言葉に対して抱かれる狭い見方が影響しています。

最近は一般層にも認知され始めた「e-Sports」という言葉。ここで「ゲームはスポーツか」という議論はあまり意味がありません。ゲームとはアートである、ゲームとはスポーツである。そして、ゲームとは「遊び」であるーーただの重言のようなこの言葉も、例えばロジェ・カイヨワを参照しながら語れば、それだけで紙幅がつきてしまいます。

結局、その作品がゲームかどうかは、リリースされるプラットフォームに左右されることが多いのが実情です。ゲーム機で発売されれば、あるいはゲームというジャンルで発売されれば、それがゲームになる。ここではゲームの定義についての論考は省略して、以前の連載(『JRPGの行方』)でも引用した、評論家のさやわか氏による定義「ボタンを押すと反応する」(『僕たちのゲーム史』星海社、2012年)を採用したいと思います。

批評とはなにか


意味や使い方が拡散してわかりにくい「批評」という言葉。「好き」という感想も「買いだ」という評価も「意義がある」という評論も、批評という言葉でまとめられることがあります。ここではまず、評論家の佐々木敦氏が2015年にゲンロンの「批評再生塾」という企画に際し発表した言葉を引用したいと思います。

批評という営み/試みの定義は一通りではないが、いずれにせよ、それは「~についての言説」である。現在の危機とは、言い替えれば、この「について」の危機ということになる。
あらゆるジャンルで、ジャンルそれ自体や、その担い手や創り手たち、個々の作品や行為や現象などなど「について」の思考と言葉が、退けられ軽んじられる傾向が強まっている。いや、言葉は大量に生産され流通しているのだが、それは信仰告白や片想いの恋文にも近い、対象にべったりと貼り付いた全肯定(或いはその反対の全否定)や、そうした全き肯定/否定を強化し保護するための内輪の言葉でしかない。
批評とは本来、外の言葉である。たとえ或る領域の内部にあるとしても、絶えず外部の視線を導入して考え、語ることにより、その領域を構成する者たちと共振し恊働し共闘し、遂には領域自体の変化と進化を促すこと。
批評の危機とは、領域/ジャンルの停滞と固定化の別名でもある。わたしたちは、この状況を危機として認識することさえなくなりつつある。このままでは、何事であれ、刻々と健全に変わってゆくことや、新しい出来事が起こること自体が、不可逆的に減じていってしまうかもしれない。それは、あまりにも不幸なことである。
(批評再生塾)


この佐々木氏の提言からは、ゲーム批評とは「外部の視線を導入して考える、ゲームについての言説」である、とまとめられると思います。前述の中沢新一氏や高橋源一郎氏のコラムは、精神分析理論や文学といった、ゲームという領域の外部に接続しようと書かれたものです。

「思考と言葉が、退けられ軽んじられる傾向が強まっている」中で、ゲームはとりわけ「ゲームごとき」「ゲームなんて」という言葉にも縛られてきました。ゲームについて真面目な顔をして語ること自体が、忌避される傾向にありました。それでいて言葉の量は増加し、対象に対する全肯定や全否定、そして内輪の言葉が飛び交っています。「信仰告白」という言葉からは、今もなお絶えることのないファンボーイ的言説が思い浮かびます。

ゲーム批評とは何か。ゲーム批評とは「外部の視線を導入して考える、ゲームについての言説」である。「中立性、客観性を持ったジャーナリズムに基づいた言葉でゲームを語ること」である。これをとりあえず第一回の結論としたいと思います。

批評そのものが危機的状況なのに、ゲーム批評など存在しうるのか。ゲームという領域に限定したときにそれが可能なのか。そもそもそれは必要なのか。次回以降はレビューやゲーム史などをふまえつつ、改めてゲーム批評について考えてみます。



参考文献・サイト

APE(企画編集)『マザー百科 新装復刻版』小学館、2003年
さやわか『僕たちのゲーム史』星海社(星海社新書)、2012年
ゲンロン批評再生塾(http://school.genron.co.jp/critics/
《Kako》
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