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【ゲーム批評の現在地】第2回:内へ潜るレビュー、外へ向かう批評

「ゲーム批評の現在地」第2回は「レビュー」について。購買と密な関わりを持ってきたゲームレビューは、今では誰でも書けるし、誰かに見られるものになりました。そんな身近な行為を、批評という観点から考えます。

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「ゲーム批評の現在地」第2回は「レビュー」について。購買と密な関わりを持ってきたゲームレビューは、今では誰でも書けるし、誰かに見られるものになりました。そんな身近な行為を、批評という観点から考えます。

ゲームレビューは批評か


これを読んでいる方で、いわゆる「ゲームレビュー」というものを見たことがない、という方はいないと思います。国内ではファミ通のクロスレビュー、海外ではゲームサイトのレビューおよび、それを集計するMetacritic。そして通販/配信サイトのレビュー。従うかどうかはともかくとして、ユーザーは明確な点数づけと端的な言葉で「買いかそうでないか」を判断する材料にします。

ゲームレビューは購買と密な関わりを持ってきました。それは、これまでゲームが隣接するジャンルに比べて「高い」「時間がかかる」という端的な理由があったからです。今では実際にプレイしたユーザーのレビューも簡単に見られるようになり、またスマートフォンなどで無料のゲームが一般化するにつれ、レビューの質も変容してきています。

前回、ゲーム批評とは「外部の視線を導入して考える、ゲームについての言説」であり、「中立性、客観性を持ったジャーナリズムに基づいた言葉でゲームを語ること」であると、仮の定義を行いました。ではゲームレビューは批評なのか。

ゲーム会社から広告料をもらっているゲームメディアが、中立性・客観性を持てるのか、たとえば【PR】と書いてあるレビューに意味があるのか、という自問はあります。これは「批評」について書いているこの連載にも関わる問題です。

雑誌『ゲーム批評』は、かつて「公正な立場を確立するため、広告を入れません」と宣言しました。『超クソゲー3』(太田出版、2011年)では特別企画「伝説のゲーム雑誌『ゲーム批評』は何に敗れたか?」で、同誌の最後の編集長へのインタビューを掲載。その顛末について赤裸々に語られています。ここに一部引用します。

林: 僕が『ゲーム批評』が変わったなあと思ったのが、やっぱり広告に対するスタンスなんですよね。最初は「絶対に広告は入れません」って宣言してたじゃないですか? あれはカッコイイなって思ってたんですよ、絶対真似したくないですけど(笑)。でも、その後に「ゲームメーカー以外の広告は入れます」って言い出したんですよね。
奈良原: そうそう。それで、最後には「ゲーム批評に広告を出そうという勇気あるゲーム会社は存在しますか?」になったんです。
※林和弘氏。雑誌『コンティニュー』元編集長。奈良原士郎氏。『ゲーム批評』元編集長。

後期『ゲーム批評』では、裏表紙で問題提起するなど「批評と広告」について、自らテーマとして掲げつつ、本気かシャレかわからない形で実際に広告を募っていました。

この問題は昔から批評全般で考えられてきたことですが、広告と批評で扱うものが同じ(ことが多い)という点で、ゲームではより重要です。ただ、これはジャーナリズムに関わる大きなテーマであり、新聞やテレビも含めたメディア全般についての問題でもあるので、ここでは別のことを書きたいと思います。

レビューにおいては、書き手は「買いかそうでないか」について書き、受け手はそれが書いてあるだろうと思ってそれを読むことが当たり前になっています。批評にもバイヤーズガイド(買い物案内)としての機能があり、“その点では”齟齬はありません。

ゲームは作品か製品か


映画が公開され、後にBlu-rayとして発売されたとき、Blu-rayのレビューに、滔々と映画の感想や批評を書き綴る……Amazonでよく見る様ですが、そこでわたしはいつも違和感を持っていました。それは「Blu-ray」じゃなくて「映画」のレビューではないのか、「映画」のレビューはよそでやってくれ、と。

映画という作品をBlu-rayという製品にパッケージしたとき、知りたいのは「製品」としてどうかという点です。価格は適正か、コメンタリーは充実しているか、音声の質はどうか、不具合はないか、などなど。

映画を語るときの「感動で涙が止まりませんでした」「怒涛のクライマックス」「みんな騙されるはず」といった言葉も、総合芸術たる映画を監督、キャスト、脚本、音楽といった要素に分解して比較・分析する言葉も、すべて「作品」としての言説です。

ゲームは「製品」と「作品」という2つの視線に常にさらされています。イヤフォンやテレビといった電化製品を買うときのような視線と、マンガや映画といったコンテンツを見るときのような視線。バグやクラッシュといった製品としての評価、戦闘や物語といった作品としての評価。ロード時間の長さやフレームレート、解像度といった点は、ビデオゲームの特性からして「作品」にいれるべきかもしれません。

ゲームは、製品であり作品である。あるいは製品という”ガワ”の中に作品がある。どんなに作品としてすばらしくても、製品としてひどければ評価されないのがゲームです。言い換えれば、製品という第一関門を突破して初めて、作品という部分が評価されるということです。最近の無料のゲームやオンラインのゲームでは、製品は「サービス」という側面が強くなり、場合によっては、いつまでも第一関門が終わらないことがあります。

オーディオ・ビジュアル系のレビューに見られるような「細かい体感の差異を言語化する」という作業と、「おもしろい/おもしろくない」という趣味性の高い判断を客観的に記述するという行為、それを並行して行うというアクロバティックなことが平然と行われている。それがゲームのレビューです。

ゲームの内と外


製品的な検査と並行して、ゲーム性、操作性、物語、映像、音楽といった作品性を要素に分解して、それぞれの要素と率直に向き合うのがレビューのひとつの形式です。各要素をはかりにかけながら、最後に総合的な感想を記し「買いかそうでないか」を判断する、というものです。

「心地いい」「おもしろかった」「感動した」といった感想に「なぜおもしろかったのか」という根拠を与え、ときに他のシリーズ作品や同ジャンルの作品と比較しつつ内部を精査し、その良し悪しで価値が決まるのがレビューです。作品はのちに別の視点から歴史の中での役割を評価され、メルクマール(目印)として位置づけられます。

外部との接続は、その作品の受容のされかた、ゲーム史への影響、あるいは社会や人間への影響といった巨視的な視点から行われる。だとしたら、いくら内部だけを精査しても批評は生まれません。いくら他のシリーズ作品や同ジャンルの作品と比較しようとも、それはあくまで領域の内部にとどまります。

批評としての言説は、あえて製品という側面を無視して、作品としての可能性を限界までつきつめ外部へと風穴を開ける方法か、製品としての側面を包括しつつ、外部への影響を考える方法があります。後者は、ゲームそのものではなく、ゲームによって生まれた空間や現象について考察する方法であり、作品批評にとどまらずゲーム全般について批評する際にも用いられます。

プレイのされ方、社会への影響、歴史的意義など、当然ですがゲームの発売時に書くことはどうやっても不可能であり、その点で「批評」としての言説と速報性が求められる「レビュー」との差別化ができると思います。また、特定の作品を例に挙げるまでもなく、ゲームの髄はその作品をやりこんだところにあると思います。「買いかそうでないか」を判断できることを期待され、ネタバレもできないという縛りの中、レビューではその髄を伝えることができませんし、それをする役割もありません。これは、レビューする作品を実際にやりこむべきかどうかは関係ありません。

様式化が進んだゲームレビューから離れ、外部との接続を試みる。レビューは作品の「価値」を定めるもの、批評は作品を「位置」づけるものとして切り分けてみる。それで、ゲームの言説はもう少し多彩なものになるはずです。



■参考文献

多根清史・阿部広樹・箭本進一『超クソゲー3』太田出版、2011年
《Kako》

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