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【ゲーム批評の現在地】第5回:ゲームと批評の「プレイヤー」

連載の最終回は、ゲームと批評の関係について触れながら「ゲーム批評」の意義について考えます。ゲーム?批評?そんなことやっても意味がないよ、という言葉を乗り超えて、これを読んでくれた誰かが「プレイヤー」になることを願って。

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ゲーム批評の諸問題


オタク的なジャンル/コンテンツを批評対象にしつつも、同時に「日本-現代-思想-史」との接続を歴然と志向する仕事は、率直に行ってどんどん成立し難くなっているように見える。それは一方では、『ゼロ年代の批評=オタク系批評』が、質の悪いエピゴーネン(その最もありふれたパターンは、自分の好きなアニメをフーコーやドゥルーズの用語を使って説明してみせる、といったものだ)を大量に産んでしまったことによるものと言えるが、しかし真の問題は、たとえ質が高かったとしても、独創的な論考であったとしても、いつのまにか読者が居なくなっていた、ということの方なのだ。
(現代日本の批評 2001-2016 佐々木敦氏の基調報告)

ゼロ年代に隆盛を極めたサブカル批評でも、ゲームは見逃されることが多く、アニメやマンガと比べても「質の悪いエピゴーネン」、つまり批評のまねごとすら、あまり生まれませんでした。

その理由として、まずは単純に「時間と金」の問題があります。ゲームにかかる時間と金は、アニメやマンガの比ではありません。アニメやマンガを語ることは、日本の作品を見るだけでもひとまずは可能ですが、世界中、様々なプラットフォームでつくられているゲームという領域で、それはできません。様々な領域を横断する批評家が、ゲームだけに時間をとられるわけにはいかないのです。

そういったわかりやすい問題以外にも、ゲーム批評の障害はいくつかあるように思います。

第1回でも引用した佐々木氏の言葉によると、批評とは「絶えず外部の視線を導入して考え、語ることにより、その領域を構成する者たちと共振し恊働し共闘し、遂には領域自体の変化と進化を促すこと」でした。

そもそもゲームという領域では、80年代から散発的に批評的言説があったものの、それがゲームという領域に変化をもたらすほどの影響力を持ったことはないと思います。たまに外部の視線が導入されるとしても、それは「ゲーム脳」や「有害図書類指定」といった、内部と外部のギャップの大きさを示すもので、およそ共振とは呼べないものでした。

ゲームという領域では、批評がなくても、テクノロジーの進歩によって自ずから「領域の変化と進化」が行われてきました。また、ゲームの進化と熟成に起因する類型化のカウンターとして、作り手がゲームの中に批評性を盛り込んできました。

ゲームとその作り手に対し、受け手は常に後追いになってしまう状況が今もあります。わたしたちはさらに「この感覚は言葉では伝わらない、ぜひ体験してほしい」「やってみれば、そのおもしろさがわかる」といって、自ら言説の限界を示してもきました。

ゲームではこれに加え、「ゲームなんて子どものおもちゃ」「ゲームなんてただのひまつぶし」と言われる状況が続いてきました。大変なのは、その言葉が、けっして領域の外部からだけではない、ということです。ゲームに興味がない人たちが批判するためだけでなく、ゲームをしている人たちすら、自虐的にこうした言葉を使っています。ゲーム自体に価値を見出せないままに、なぜかゲームをプレイしている、そしてなぜか没入している、という状況は、スマホ時代になってさらに顕著になっているような気がします。

「好きなもの擁護」を超えられるか


1994年に発売された任天堂のRPG『MOTHER2 ギーグの逆襲』。わたしは当時そのラスボス戦で、生まれて初めてゲームで感動して涙を流したのですが、なぜ感動したのか、言葉にすることができませんでした。それ以来、その感動を伝えるためには何か特別な言葉が必要だと考え、また、ゲームの地位が上がらないのは、その素晴らしさを外部へ語る言葉を持っていないからだ、と感じてもいました。今は「地位向上」という考え自体が浅はかだったと思っています。

宇野常寛氏の著作『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008)に寄せられた、宮台真司氏の推薦文に「『好きなもの擁護』を超えた」という言葉があります。前述のような動機からいえば、わたしがしようとしていることは「好きなもの擁護」にすぎず、さらに、ゼロ年代が終わり実際的な政治を語る言葉へと批評が変容していった中で、ゲーム批評について考えるのは今さらなのかもしれません。

本稿は「ゲームについての言説についての言説」という形で、極めて抽象的な話に終始しています。いくつか専門家の著作から引用していますが、そうした言葉のパッチワーク自体、うさんくさいものと思われるかもしれません。そんなにやりたいなら、おまえが勝手に「ゲーム批評」とやらをやればいいだろう、という意見もわかります。

「KOTY」の協働性


みなさんの中には「KOTY」という言葉を聞いたことがある人も多いかと思います。5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)の「クソゲーオブザイヤースレによりその年でいちばんクソだったゲームを決める祭典」(「」内はKOTY wikiから引用)であり、すでに10年以上の歴史があります。議論の末に総評が書かれ、その年のKOTYが決定します。ここでは「クソゲー」についての説明は割愛します。

中立性・客観性を志向しつつ、きちんとゲームをプレイした上での言葉である、という点で、「KOTY」は、雑誌『ゲーム批評』の系譜に連ねてもいいような特徴を持っています。

その内容自体は、単に欠点を列挙しているものが多いのですが、ときに「レベルを上げて物理で殴ればいい」といったクリティカルな言葉が生まれることもあります。この言葉がクリティカル(critical=批評的)なのは、それが当該作品への批判になる一方で、日本のRPGが特徴として持っている「やさしさ」を端的に示す言葉であったからです。

「批評的=臨界的」(critical)とは、本来、明示的な批判や非難を指すのではなく、文学でも美術でもアニメでもゲームでも、とにかくなにか特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造的行為一般を指す形容詞だったはずだからである。
(『ゲーム的リアリズムの誕生』付録B 『美少女ゲームの臨界点』波状言論、2004)

特定の作品について、クソゲーとしての可能性を引き出そうと試みるさまは、その行為自体の意味を疑うアイロニカルなものながらも、たしかに批評性を持っているといえます。臨界に達した言説が、単一の作品を超え、特定のジャンルやゲームという領域全体に響く言葉になることもあり、ときにクソゲーはある種の高尚さを持って受け止められます。

スタンドアローンからオンラインCo-opへ


「KOTY」の特徴は、それが特定の書き手ではなく、掲示板に寄せられた意見を集約して、選出と総評が行われるという点です。

すでにメルクマールとして存在する作品や、今後メルクマールとなるであろう有名作品について語るだけなら、ひとりでもできるかもしれません。しかし、無数に存在するゲーム群から批評の対象をとりだし、それに光をあてるような作業はひとりではできません。そこで、「協働」という「KOTY」の仕組みは参考になると思うのです。

わたしはけっして「みんなでクソゲーを探そう! 」と言っているわけではありません。わたしが言いたいのは、プレイヤーそれぞれが、今、目の前にあるゲームの可能性を限界まで引き出すような語りをすることで、時間と金というゲーム批評の問題点が克服できるのではないか、ということです。もちろんこれは「ゲームの髄はその作品をやりこんだところにある」ということが前提にあります。

今回の記事が「ゲームについての言説についての言説」という形にとどまっているのは、わたしの限界でもありますが、同時に、ゲーム批評的な言説が、協働性を持って立ち上ってくること、スタンドアローンではなく、オンライン協力プレイとして実装されることをほのかに期待しているからです。それは「フレンド」との閉じた協働性ではなく、不特定多数との協働性です。

プレイヤーと観客


わたしはゲームをとりまく言葉の類型化にいらだちのようなものを感じていました。『MOTHER2』に対し、ポップな世界観、ユーモアにあふれたキャラクターと台詞回し、家族愛と友情を描いた物語といった自然主義的で素朴な記述を見て、「いや、そうじゃないだろう」とひとりごちてもいました。もちろんそれらも『MOTHER2』の魅力であり、それを書くことは間違いではないのですが。

もちろん、現時点でも素朴な記述とは真逆の、巧緻で意義のある言説はいくつも存在しますが、実際には内部にいるわたしたちにほとんど届いていないのが現状です。これを佐々木氏は「外から目線」に対する「意識的/無意識的な排除」と表していました。

それが起こる理由のひとつは、横断的、越境的なはずの批評が、無関心な人からすれば、謎めいた「ひとつの閉じた領域」にしか見えない、という点にあるように思います。

その領域からは、ときおり「アンノウン」がやってきて、こちらの領域にある目ぼしいアイテムを収集して元の領域へ帰っていく。ゲームだけでなく、どうやらいろいろな領域でアイテムを収集しているらしい。「アンノウン」が敵なのか味方なのかもわからないが、面倒な割に報酬も大して得られそうになく、そもそも遭遇率が低いので、いつまでも放置してしまっているーーこれがゲームの領域から見た、別領域としての「批評」です。

ゲーム領域の外からの「ゲームなんて意味がない」と同様に存在する、批評領域の外からの「批評なんてわからない」という目線。では「外から目線」がだめならどうするか。「外→内」ではなく「内→外」という方向での接続が必要です。そのためには、領域の内部にいる人間が、外部へ接続させるためのプレイヤー(=書き手)になるしかありません。

『現代日本の批評』の共同討議で、東浩紀氏は「観客がいなくなれば批評は終わり」と述べています。わたしはゲームという領域において、観客(=読み手)がつくような言説は、よりゲームの側に立った形でしか生まれないのではないか、と考えています。この観客は、元々いた「批評」の観客とは別の観客です。

だからこそゲームのプレイヤーが「批評のプレイヤー」になることが求められるのではないか、それもスタンドアローンではなく、不特定多数との協働ができるプレイヤーとして。

そこでは言説が「内→外」ではなく【内→内】にとどまる可能性を常に孕んでいます。それでも、ときには言説が外部へ貫通し、ゲームという領域を超えた横断性を手に入れることがあるのでないか、テクノロジーではなく言説によって、ゲームが変容することもあるのではないか、と考えています。

あるいは「書く」ことより、「つくる」ことや「プレイする」ことの方がいい場合もあるかもしれません。優れたインディーズゲームや、自由なゲーム実況に批評性が宿る例もあります。ただ「つくる」や「プレイする」は、ゲームの特性を抱えすぎており、領域の外側へ行くのは難しいのが実情です。

創造的なチャンネルのために


ゲーム批評とは「外部の視線を導入して考える、ゲームについての言説」である。レビュー、ゲーム史、自然主義的な読解との差別化を図り、ゲームの構造に注目する。今回はこれをおおまかに「ゲーム批評」と呼んでいます。けっしてレビューやゲーム史に批評性がないと言っているわけではありません。

この「ゲーム批評」は「質の悪いエピゴーネン」に過ぎないかもしれません。それでも、素朴に過ぎる記述やコミュニケーション目的の全肯定/全否定の言葉に比べれば、はるかに創造的なチャンネルとなる気がするのです。

この「創造的なチャンネルを広げること」こそが、「ゲーム批評に意味があるのか」という疑問に対する率直な答えです。そして、創造的なチャンネルを「広げる」のは、批評の「内容」よりもむしろ、批評という「行為」であり、そのためにも多くの「プレイヤー」が必要なのです。「そんなことやっても意味ないよ」ではなく、「やっても意味ないかもしれないけどやる」という選択。言うまでもなく、ここでいう批評は、単なる批判や非難とは異なるものです。

ゲームという領域においては、批評の再起動にすら至っていません。テクノロジーが進化する限りは領域も進化するんだから、わざわざ起動させなくてもいいのではないか、という葛藤を抱えつつ、まずは今、目の前にある作品についての語り方を多様なものにしていくことで、ゲーム批評は始まると思っています。

■参考文献・サイト


市川真人, 大澤聡, 佐々木敦, さやわか, 東浩紀『現代日本の批評 2001-2016』講談社、2018年
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』早川書房、2008年
東浩紀(編)『美少女ゲームの臨界点』波状言論、2004年
KOTY据置wiki(http://koty.wiki/
《Kako》
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