※この記事には『DEATH STRANDING』のネタバレが含まれます※

銃器哲学とは
銃器哲学とは、ゲームやフィクション作品における銃器の描写を、単なる戦闘ツールとしてではなく、その世界の思想やキャラクターの内面を映し出す装置として読み解く試みです。
はじめに
「なわ」は、「棒」とならんで、もっとも古い人間の「道具」の一つだった。「棒」は、悪い空間を遠ざけるために、「なわ」は、善い空間を引きよせるために、人類が発明した、最初の友達だった。
安部公房 著:「なわ」(新潮文庫 刊「無関係な死・時の崖」に収録)より
一般的に、「銃」とは「断絶」の象徴です。
前回寄稿させていただいた「『The Last of Us』の銃器哲学」でも論じさせていただいたように、引き金を引く行為は他者を遠ざけ、傷つけ、最終的には命を奪います。撃つこと/撃たれることは、拒絶の最終形態とも言えます。
フィクションの世界においても、銃は特にそのような文脈で描かれてきました。対話の終わり、関係の破綻、あるいは孤独の証として存在してきたのです。
そして銃声はしばしば、物語における関係の終止符として響いてきました。
しかし、それだけなのでしょうか。
小島秀夫監督が全体を手がけ、2019年に発売された『DEATH STRANDING(デス・ストランディング)』では、現代日本文学の大家である安部公房の短編小説「なわ」の一節が明示的に引用されました。
記紀神話をはじめとする神話やあらゆる宗教、文学、哲学―― 人類は長い歴史の中で、さまざまな思想を積み重ねてきました。その中に並び立つように、『DEATH STRANDING』は「なわ」の一節を独立させ掲げています。
そしてこの定義が物語のあらゆる場面に参照される『DEATH STRANDING』において、銃はどのように描かれているのか。「死」や断絶の象徴であるはずの銃が、つながりを描く物語の中でどのような役割を担っているのか。
その問いを追うことで見えてくるのは、我々人間を取り巻く世界のありかたであり、主人公であるサム・ポーター・ブリッジズという人物の本質であり、彼が旅の終わりに辿り着いた、穏やかな帰還の意味なのです。

棒としての銃
上述したように、『DEATH STRANDING』はそのオープニングにおいて、最初のテキストとして安部公房の短編小説「なわ」の一節を引用しています。小島秀夫監督は後に「銃で撃ち合う『棒』のゲームが多いので、「なわ」のゲームを作った」と語り、この引用を作品の設計原理としてクレジットしました。

「なわ」という短編で安部公房が提示したのは、「なわは善いものを引き寄せ、結びつけ、手元へとつなぎ止めるための道具であり。棒は悪いものを遠ざけ、距離を取り、空間を守るための道具である」という、「なわ」と「棒」の定義です。
人間の文明は、この二つの働きのあいだで形作られてきました。つまりは何かを引き寄せ、関係を結ぶこと。あるいは何かを拒み、距離を保つことです。
重要なのは、これが単なる道具の説明ではないという点です。なわと棒とは、人間が世界と関係を結ぶ方法そのものの比喩でもあるのです。
人間は古くから、「棒」という道具に距離を求めてきました。 手の延長として振るわれた棒は、石を結びつけた棍棒となり、長く伸ばされた槍となり、弓矢となり、そして銃へと至ります。
これらの武器に共通しているのは、単なる破壊力ではありません。自分の身体が届くよりも遠くへ、意思を届かせること。武器とは多くの場合、人間の「距離の拡張」なのです。
その意味で銃、とりわけライフルは、「棒」の思想が到達した極点とも言えます。触れることなく、遠くから相手を排除できる道具。安部公房が言う「悪い空間を遠ざけるための道具」という定義は、銃という存在において、最も純粋な形で実現されているのです。
しかし『DEATH STRANDING』において興味深いのは、この銃が単純な「棒」として扱われていない点です。なぜなら、本作において道具とは単に形や機能で決まるものではなく、それを手にする人間の在り方によって意味を変える存在だとも言えるからです。
なわは結びつける道具であると同時に、人を縛る凶器にもなり得ます。棒もまた、暴力の媒介である一方で、崖を下る際のロープを固定する杭にもなり得る。道具は常に、人間の意志と結びつくことでその性質を現すのです。


小島監督がこの短編を作品の根幹に据えたことで、『DEATH STRANDING』全体が「道具とは何か」「それを手にした者の内面が世界をどう変えるか」という問いの場としても構造化されました。そしてその文脈において、銃は単純に「棒」の延長とは言い切れない存在として現れます。
ゲーム内で銃は、文明の道具として当然のようにそこに存在しています。他の装備と同じように、高性能な3Dプリンターによって印刷され提供される銃は、特別に善悪を託されることなく、必要な場面で使われるべき道具として淡々と描かれます。銃は「棒」として断罪されるのでもなく、「なわ」に対置される悪として語られる存在でもないのです。

この「過度に語られない」という姿勢こそが、本作における銃器描写の核心です。銃は英雄性の証でもなければ、罪の象徴でもありません。それはただ、あるべき場所にある道具として存在しているのです。
この静けさは、小島監督が手がけた『メタルギア』シリーズと比べると特に際立ちます。『メタルギア』においては多くの場合、銃は何かを語っていました―― 信念を、時代を、制度に囚われた自由を。しかし本作の銃は、沈黙することを選んでいます。その沈黙の意味は、物語の進行とともに、ゆっくりと姿を現します。
「穢れ」と「血液弾」
本作のゲームシステムは、致死性兵器と低致死性兵器を明確に区別します。人間を殺せばその遺体はBTを引き寄せ、ヴォイドアウト(対消滅)の危険を孕みます。この設定は「殺す・殺さない」という単純な分け方ではなく、「自分の行為が世界にどう影響するか」という問題として提示されます。

ここに、本作が孕む宗教的・神話的な死生観の核心があります。死者を適切に処理しなければ世界に悪影響を及ぼすという発想は、日本神道における「穢れ」の概念と深く重なります。
日本神道において、死は「黒不浄(くろふじょう)」と呼ばれる、最も根源的にして強力な穢れの一つを纏っています。そしてそれを祓わないまま放置することは、周囲の世界へと穢れを伝播させます。本作においてマンハッタン島を消失させたとされるヴォイドアウト(対消滅)という核爆発規模の爆発は、まさにその穢れの連鎖が臨界点に達した状態と読むことができます。

実弾による殺害が禁忌に近い扱いをされているのは、その意味で偶然ではありません。人を実弾で倒した結果存在する遺体は、焼却場での焼却という儀式を経ることで初めて無害化されます。「火葬は死の穢れを浄化する儀式」という機能を、ゲームメカニクスの中に文字通り内包しているのです。
実弾で命を奪う行為は、火葬という儀礼的な清算―― つまりは「禊」を経て初めて許容される。これは日本の死生観を骨格とした、きわめて宗教的な設計と見ることができます。

そしてBT対策に用いる血液弾の設計にも、この文脈が及んでいます。弾薬の原料がサム自身の血液である以上、(自己輸血用の血液袋で回復が可能と言えど)撃てば撃つほど自分の体力が削られていきます。日本神道において血もまた穢れの象徴のひとつであり、血を流すことは「赤不浄(あかふじょう)」とされる種類の穢れを生むとされてきました。
しかし本作では、その「穢れ」である血液が、超常的存在であるBTに対して実力として有効になります。穢れで穢れに対抗する―― この逆説的な構造は、神道的な穢れの概念を再配置したものとして解釈可能です。

安部公房が「なわ」で描いた道具の倒錯は、こうして本作においては宗教的・神話的な次元にまで拡張されています。銃が世界に与える影響は、倫理の問題であると同時に、世界の穢れと浄化をめぐる、極めて大きな視点での問題として提示されているのです。
そしてこうした世界のことわりを背負いながら、サム・ポーター・ブリッジズという一人の男は歩き続けます。人との接触にアレルギー反応を起こし、距離を生きる彼にとって、銃とは何なのでしょうか。
サムと銃
主人公であるサム・ポーター・ブリッジズは、人との接触を避ける人物として描かれています。アフェンフォズムフォビア―― 接触恐怖症―― を抱え、常に他者との距離を保とうとする彼にとって、銃という道具は象徴的な意味を持ちます。

銃は本質的に「距離を保つ道具」です。敵に近づかず、触れることなく、遠くから脅威を排除する。この機能は、サムの内面と静かに呼応しています。
小島監督が引用した安部公房の「棒」の定義―― 悪い空間を遠ざけるための道具 ―― は、サムというキャラクターそのものに人格化されています。人を傷つけない為に、そして己が傷つかないために距離を取り、距離を取ることでさらに孤立していく。その構造が、アフェンフォズムフォビアを抱えるサムの在り方そのものだからです。
しかし興味深いのは、その孤立が作品全体において否定的に描かれていないことです。サムの孤独は弱さではなく、彼が世界と向き合うための一つの形として尊重されています。銃もまた、その孤独を支える無言の道具として機能します。

多くの配達は銃を必要とせず完遂されます。サムは荷物を背負い、険しい地形を越え、時には転びながらも目的地へ辿り着く。銃はそのプロセスにおいて、数ある道具の一つに過ぎません。
しかしそれでも、彼が銃を手にしなければならない瞬間があります。
銃撃という行為は、本質的に一人では成立しません。撃つ者がいれば、必ず撃たれる者がいる。相手の存在を前提とする行為である以上、それは断絶であると同時に、ある種の接続でもあります。
『DEATH STRANDING』が描くつながりの形は、なわだけでなく、銃口の向こうにも宿っているのです。
銃が「歴史」になる時所
『DEATH STRANDING』は「撃つゲーム」ではありません。プレイ時間の大半は、荷物を運び、地形を読み、バランスを取りながら歩くことに費やされます。銃を構える時間は、相対的に短く設計されています。
しかしこの設計こそが、作品の意図を明確に示しています。銃の存在は世界の緊張を確かに支えていますが、それが物語の中心になることはありません。銃は「そこにある」ことで機能し、「常に使われる」必要はないのです。
この「使用頻度の少なさ」は、銃が特別な意味を持たないことを意味しているのではありません。むしろ、銃が日常的でないからこそ、それが選択される瞬間の重みが増すのです。
しかし一方、明確に銃とそれを使った戦闘が主題になる場面があります。劇中で何度もまみえる謎の男、クリフォード・アンガー(クリフ)との戦闘シークエンスは、本作において唯一、銃が物語の主役になる場面です。第一次世界大戦から第二次世界大戦、そしてベトナム戦争を模した空間で、サムはGWOT(対テロ戦争)初期の、米軍特殊部隊の装備と銃を身に着けたクリフと戦います。



『DEATH STRANDING』に登場する銃器は架空のものですが、そのすべては実銃を深く理解した上でデザインされています。クリフの銃も例外ではなく、明確にGWOT初期の特殊部隊仕様M4カービンを思わせる構成です。2000年代特有の大型レーザー照準デバイスや、フラッシュライトを組み込んだフォアグリップなど、そのディテールは「架空銃化のための再解釈」というより、むしろ「実在装備の存在意義」をほとんどトレースしたものに近い印象を受けます。
モジュラー化が急速に進み始めた時代の最先端装備でありながら、まだ洗練されきっていない過渡期の荒々しさを残しており、まるで過去の戦争そのものを背負って現れたかのような実在感を纏っているのです。


サムがクリフと戦う戦場は、それそのものがBTの記憶が生み出した「歴史の亡霊」です。発売年である2019年時点では、20世紀からの近代戦争の系譜の、その終端に位置する「戦史としての最新であり最後の戦争」がGWOTでした。クリフがその装備を身に着けていることは、戦争が単なる出来事ではなく、時代を越えて積み重なってきた歴史そのものであることを示しているようにも見えます。
そして銃はここでは単なる道具ではなく、過去の暴力と悲劇の象徴として機能します。クリフが囚われ続けた恐怖、そしてBBという存在が背負った悲しみ。それらすべてが、「死」が現実となって襲い掛かってくる世界で、銃という形で物質化されているのです。
サムが戦場で銃を手にすることは、彼が過去と向き合うことを意味しています。それは必然的な対峙であり、避けることのできない儀式でもあります。しかし重要なのは、この戦場が「現在」ではないことです。銃が主役になる時と場所は、常に過去の記憶の中だけなのです。
銃では終わらない選択
しかし本作には、もう一つだけ銃が主役にならずとも決定的な意味を帯びる瞬間があります。それは過去の戦場ではなく、物語の核心にある現在(いま)の選択の場面です。
最終盤、サムは旅の目的であった家族、アメリの背に銃を向けます。それは敵との戦闘でも、防衛のための発砲でもありません。世界を終わらせる存在―― 絶滅体である彼女を前にして、世界の行方を決めるかもしれない選択として差し出された銃です。

しかし、この場面でプレイヤーが引き金を引くことは、物語を前に進めません。リボルバーのシリンダーに込められた六発の弾丸を撃ち尽くしても、待っているのはゲームオーバーです。

銃は撃つことができる。しかし撃つことでは、世界は続かない。
物語を進める唯一の行為は、銃を使うことではありません。サムがアメリに近づき、彼女を抱きしめること―― ただそれだけです。
この瞬間、『DEATH STRANDING』は非常に明確な構図を提示します。銃は確かに手の中にある。しかしその銃では、世界の問題は解決しない。撃つという選択は可能でありながら、物語の文法の中には存在していないのです。
ここでサムが行うのは、排除でも勝利でもありません。彼はただ、相手に触れます。距離を取り続けてきた男が、初めて自ら距離を越えていくのです。
安部公房が「なわ」で示した二つの道具を思い出せば、この場面の意味はよりはっきりします。棒は悪い空間を遠ざける道具であり、なわは善いものを引き寄せる道具でした。銃は明らかに棒の延長にある道具です。しかしこの場面でサムが選ぶのは、棒の論理ではありません。
彼は銃を撃たず、代わりに腕を伸ばします。世界を続けるのは、銃ではなく、触れるという行為なのです。
人と世界が変わるとき
物語のエンディングにて、サムは旅の、旅のサポート役だった仲間の一人、ダイハードマンに静かに伝えます。「銃はもういらない」と。

この言葉は、単純な武器の否定ではありません。それは銃に頼って邪魔者を退ける時代が終わったことを示す、静かな宣言です。
ダイハードマンは長く、暴力と命令の狭間で生きてきた人物です。彼にとって銃は、職務であり責任であり、そして呪縛でもありました。サムの言葉は、その呪縛からの解放を意味しています。
しかしそれは同時に、サム自身の変化の表明でもあります。彼はもはや、銃に頼って世界との距離を保つ必要のない場所へと戻ってきたのです。

安部公房が「なわ」で示した問いの核心がここに重なります。棒は「悪い空間を遠ざける道具」ですが、その棒を永遠に持ち続ける限り、人は善い空間を引き寄せることができません。サムが銃を置いた瞬間は、棒を下ろすことで初めてなわを手に取れるようになる、その転換点でもありました。
銃を置いたあと、サムはBBを抱いて空を見上げます。そこには虹がかかっています。
それまでの『DEATH STRANDING』において、空は常に危険な存在でした。時雨が降り、BTが現れ、虹さえもデス・ストランディングという現象の片鱗として、正確には環水平アークと呼ばれる現象に近い、いびつな象徴として描かれてきました。しかしこの瞬間、青を備える通常の虹は、ただ静かに空にかかっているだけです。

世界そのものが突然安全になったわけではありません。それでもサムは、ようやく世界を穏やかなまなざしで見つめることができる場所へ戻ってきました。彼の視界から脅威のフィルターが外れ、世界が本来の姿で現れたのです。
ここで重要なのは、銃が不要になったということではありません。状況が変われば、サムはまた銃を手にするかもしれません。しかしこの瞬間、彼は銃がそばになくても揺らがない自分に戻れたのです。
旅を始めた頃のサムは、孤立を選び、必要最小限の接触で任務を遂行していました。しかし旅の終わりに彼が辿り着いたのは、孤立の克服ではなく、「つながり」と再び向き合えるようになった自分です。
銃を置けたのは、それを恐れなくなったからではありません。
それと共にいられるようになったから―― その静かな変化が、引き金から手を離す理由になったのです。
『DEATH STRANDING』の銃器哲学
『DEATH STRANDING』における銃は、暴力の象徴でも、英雄性の証でもありません。それは「世界の扱い方の一つ」として、静かに存在しています。
サムは銃を置きました。BBという存在、つながりという実感、そして自分が果たした役割への納得。これらすべてが揃った時、彼は初めて銃から手を離すことができました。
安部公房が「なわ」で定義した二つの道具を、今一度思い出してみましょう。安部は「棒は悪い空間を遠ざけるための道具であり、なわは善い空間を引き寄せるための道具である」と定めました。
サムは長く、棒を心にして生きてきました。触れず、距離を保ち、自らを守るために。接触恐怖症とその根源となるトラウマを抱える彼にとって、それは必然の選択だったかもしれません。しかし旅を経て彼が選んだのは、棒を振り回すことでも、棒を捨て去ることでもありませんでした。
棒を置けるほど安全になった世界を、彼は自らの足で作り上げたのです。
あるいは、正確には違うかもしれません。彼は棒を「捨てた」のではなく、棒と共にあることを恐れなくなったとき、自然と手はなわの方へ伸びていた。その順序が、この物語の核心です。
この作品が描いたのは「棒かなわか」という二者択一への答えではありません。棒を置き、なわを手に取ることができた一人の男の、静かな帰還の記録です。彼は世界を拒絶することもなく、盲目的に受け入れることもなく、ただ自分の立ち位置を見つけました。
ラストシーンにて、世界のすがたを見つめるサムの表情がその答えそのものです。銃はアメリカ合衆国をつなぎ直した人々から、少しだけでも離れた位置に置かれ、サムの手にはBBが……いいえ、BBという「なにか」から「だれか」へとなれた、愛娘のルーが抱かれています。
この対比が、すべてを語っています。
サムは銃を撃ち、もっとも遠くに触れ、結び、そして置きました。それでも世界は騒がず、雨を降らし、静かに虹をかけるだけでした。
その光景を、ルーを抱きかかえながら見つめる彼の沈黙が、この物語が与えた、もっとも確かな救いなのだと感じられます。













