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しかし、スパくんはまだ動き続けた。ごきぶりみたいなやつだ。どこに中枢があるのか、わからない。とにかく、めった突きにして、細かく刻んでやることにした。藤田のナイフはよく切れた。
やっと静かになった。あなたはばらばらになったスパくんの死骸の前で立ち尽くし、いますぐストロングゼロを飲みたい、飲んでなにもかもわからなくしたいという欲求を抑えながら、椅子を持ち上げて、窓におもいきり打ちつけた。そこから身を投げようと思ったのだ。しかし、びくともしなかった。何度も打つうちに皹が入ったが、それだけだった。しっかりしたビルだった。
あなたは椅子を置き、立ったまま呆然とした。
誰もなにも言わなかった。
それから、あなたは内省をはじめた。そして、このゲームブックがどのように終わるべきか考えた。あなたはオフィスのほうに行き、冷蔵庫からストロングゼロを取り出した。缶からは、恐怖の触手がしゅるしゅると生えていた。
結局、なんらかの災厄があるひとつの事物のせいだという論調の話はことごとく間違いなんだろうな、とあなたは思った。あなたはあらゆる出来事に原因があると思い込んでいたが、じつのところそうではないのだ。悪意がまったく自然発生することは、ある。ラヴクラフトが描こうとしたのは、そういうものであったのかもしれない。描写を蒸留するための原材料が黒人や異教徒への差別意識であっただけで、作品まで昇華されてしまえば、その蔑視はフレーバーのようなもの、香りづけのようなものに変化する。そして、酒の香りに文句をつけることはいつもむずかしい。そういうものだと言われれば、それで納得できてしまう。
それにしても、ラヴクラフトと彼が書いたもの、いずれが悪であったのか、とあなたは思った。
それからあなたは、ストロングゼロを企画・開発したサントリーの特定の部署に勤めている人間たちのことを考えた。彼らは社内で表彰されているはずだった。すくなくとも、昇給はされているはずだった。いや、もしかすると、日本のことだから、これだけのスマッシュ・ヒットを飛ばしたにもかかわらず、びた一文も昇給はなかったかもしれない。かわいそうに。
まあ、まあ、いいだろう。いずれにせよ、あなたが考えたのは、ストロングゼロを作った人間たちの気持ちだった。彼らはこの低級酒が毒であり、また、私たちの心を緩めてくれる薬でもあることを知っていたはずだ。
彼らはストロングゼロを飲む人間のことを考えただろうか、とあなたは思った。考えなかったはずはない。だとしたら、どんな気持ちだったろうか。たぶん、彼らは祈っていたはずである。この酒を飲むものに幸いあれと。恐怖の触手にとらわれることなく、深きものどもに食われることなく、辛い人生を耐え忍ぶためにせめて気持ちよく酩酊してほしいと、願っていたはずである。
だからあなたは恐怖の触手にまみれたストロングゼロを口につけた。口につける瞬間、あなたはさわやかなレモンの風味、心地よい刺激の炭酸を感じた。それから、飲み込むとき、舌がしびれるようなアルコール、むかつくような鼻に抜ける後味を感じた。それはじつのところ、あなたがずいぶん長いこと体験していない味だった。
飲んだあと、誰もいない深夜のオフィスで立ち尽くしていると、不思議なことに、春のような匂いがした。
ひとり暮らしをはじめたばかり、友達もまだできていなかった大学一年生の春の夜、入居したばかりのアパートの窓を開けたときに感じられる、すてきな匂いだった。
子供のころ、好きなゲームを好きなだけ遊んでよいと両親に許された春の夕方、開け放たれた窓の網戸越しに入ってくる風の、すてきな匂いだった。大人になってから、あなたとはどうしても一緒になれないけれど、幸せになってねと、花吹雪のなかで大切な恋人に告げられた日の、すてきな匂いだった。
そしてあなたは考えた。
39.しかし、そうはいっても、みんな最後には死ぬ。このことについて、もうすこし考えなければいけないな。(END)