「究極の選択がある」と評価をした上で、ここでお詫びしなければなりません。この先は大きなネタバレとなるのですが、本作にはその選択を(妥協的ではなく)先進的に解決する方法がしっかりと提供されています。
「結局のところは大団円になる方法があるんじゃないか!!」とがっかりしてしまう方もいるかもしれません。エンディングに至る大きな選択でさえ、いろんな痛みはありつつも全体として納得できる形の結末が用意されています。
しかし、筆者はあえてここを評価したいと考えます。本作が一貫しているのは皮肉や冷笑ではなく、常に前進しようとする可能性を探り続けることにあると感じたためです。意外に思われるかもしれませんが、本作のメインストーリーの後半は特に真面目な内容となっています。
おかしなマッドサイエンティストが急に現れて、ブラックジョークを連発する冒頭と比較すると、フィニアス・ウェルズは極めて真摯な科学者だったのだと認識を新たにすることでしょう。
実際のところ、宇宙的スケールである舞台と比較してしまうと、プレイヤーが最終的に挑む問題はかなり現実的なものと言えます。例えばAIが反旗を翻すだとか、宇宙人めいたなにかが襲って来るだとか、そんなものは存在していません。どこまでも人類がどのように生き残っていくのか……その為の切実な問題にフォーカスされています。
そんなシンプルな問題を最後の課題として設定してしまったObsidianの仕掛けは秀逸だと言わざるを得ません。コールドスリープのまま主人公達が放置されていた70年の間に、ハルシオン星系のコロニーは成長し、普通の生活ができるまでになっています。しかし、それほどの期間がありながらも、そうした問題に気が付けなかった人々の理由は、たったひとつの課題によって納得できてしまうのです。
その課題の内容については、実際にゲームプレイで確認してもらえればと思います。どちらにせよ、その課題が浮き彫りになった頃には手遅れだと考えた評議会(ハルシオン星系コロニーの中央政府的な存在)の愚かさを、ただ愚かだと責められるプレイヤーも少なかったのではないかと考えます。
しっかりとRPGを楽しみたいと考えるプレイヤーの為に「究極の選択」を用意しながらも、『アウター・ワールド』は「諦めない心」の大切さを伝えようとしていました。
本作は群像劇であるとも言えるでしょう。フィニアス・ウェルズが孤独に戦い抜く中で感じた苦悩は、恐らく皮肉めいたゲームの雰囲気の中にまぎれて、ほとんど最後の方までプレイヤーには見えてきません。
究極の選択に関わる人物達はリアリストです。どこか「仕方ない」というものを抱えたまま、強力な信念を推進力にして事業を続けています。だからこそ、彼らは例外なく多くの人を束ねる立場に設定されているのでしょう。
しかし本作の舞台を丁寧に探索していると、孤独に戦い続けている人に出会うことがあります。そうした人達に貫かれているのは「それでも何かできることがあるはずだ」という黄金の精神でした。
人間は常に進もうとする意思を持たねばならない。筆者はそんな心意気を本作から感じられたように思います。主人公が背負った血筋だとか、特殊な能力による解決だとか、そうしたものは初めから存在しません。『アウター・ワールド』に用意されている「第三の解決法」は、そのようにして歩んだプレイヤーに対して導き出されるようにできているのです。