※本記事には伊藤計劃 著「虐殺器官」ならびに『メタルギア』シリーズのネタバレが含まれます。

はじめに
When heavens divide
天国が分かたれるとき
Time will come to softly lay me down
私は静かに横たわるだろう
Then I can see a face that I long to see
その時ようやく、私はあなたと向き合える
And for you, only you I would give anything
あなたに、あなただけにすべてを捧げて、私は去ろう
Leaving a trace for love to find a way
思いが迷わぬよう、足跡を残して
ーー『METAL GEAR SOLD:PEACE WALKER』 挿入歌「Heavens Divide」より、筆者訳
日本には伊藤計劃というSF小説家がいました。
2007年に処女作「虐殺器官」で鮮烈なデビューを果たし、翌2008年には、かねてから親交の深かった小島秀夫監督の作品『METAL GEAR SOLID 4 GUNS OF THE PATRIOTS』の小説版を執筆。
刊行された「メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット」は単なるゲーム作品のノベライズに留まらない、著者・伊藤計劃の作家性を色濃く反映した作品として評価されます。
さらに同年12月、2作目のオリジナル長編「ハーモニー」を刊行。極端な健康管理社会を舞台としたディストピア小説であり、他の作品と合わせて現代社会に対する鋭い問いを含んだ作風が受け入れられました。
そうして2009年3月、再発した病のため逝去、享年34歳。
本稿では、伊藤計劃氏と彼の作品を紹介しつつ、ゲームクリエイター・小島秀夫監督による『METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN(以下、MGSV:TPP)』で描かれ、多くのプレイヤーが違和感を抱いた「声帯虫」という設定の中に、彼のミーム(文化的遺伝子)がいかなる形で息づいているかを読み解いていきたいと思います。
そしてその読み解きを通じて見出すことができるのは、自身の最高のファンだった作家の思想に対し、小島監督が目的を持ち静かに、しかし切実におこなった「応答」の形です。
作家・伊藤計劃氏と、ゲームクリエイター・小島秀夫氏
伊藤計劃は1974年、東京に生まれました。
文学・映画・ゲームへの深い関心を持って育ち、武蔵野美術大学在学中から各同人活動、漫画作品の執筆のほか、ブログ「伊藤計劃記録」にて精力的にフィクションに対する批評を書き続けました。そのブログは後に書籍化されるほどの水準を持ち、書かれた批評の密度は、単なるファンの感想を遥かに超えるものでした。
中でも、小島秀夫監督の作品への愛着と分析は格別でした。彼が書いた『METAL GEAR』シリーズの感想・考察は、作品の持つ思想的な射程を正確に捉え、ゲームという媒体を文学と同等の批評対象として扱っています。彼は「小島原理主義者」を自称する熱狂的なファンであると同時に、作品の本質を読み解くことのできる書き手だったのです。
1998年、「東京ゲームショウ'98春」の『METAL GEAR SOLID』特設ブースで初めて出会った2人は、やがてクリエイターとファンという垣根を超えた付き合いとなり、2008年には小島監督からの直接の依頼により『METAL GEAR SOLID 4 GUNS OF THE PATRIOTS』のノベライズを手がけることになります。
管理された戦場を「もはやスネークにとり馴染み深い場所ではなかった」と描写したあの冷徹な筆致は、原作への深い理解と、伊藤計劃氏という書き手の眼差しが合わさって初めて生まれたもの。それは原作に忠実な再現ではなく、小島秀夫という作家の世界観への文芸的な応答だったのです。
一方でこの時期、彼は自身の作家としての中核をなす命題を、二つの長編に結晶させています。それは「人間は遺伝子という情報の乗り物であり、意識や魂とされるものは、プログラム的な処理の結果に過ぎないのではないか? 」という問いです。
処女作「虐殺器官」では、言語が人間の暴力本能を強制起動するという形でその命題を描き。「ハーモニー」では、個人の意識そのものが管理された社会の中で解体されていく様を描きました。どちらも、読者に安易な答えを渡さない。その誠実さと後味の苦さが、作家・伊藤計劃の輪郭です。

〈あらすじ〉
アメリカが「安全保障」の名のもとに監視社会へと変貌した近未来。世界各地では突如として虐殺が頻発し、主人公クラヴィス・シェパード大尉はその混乱の陰に存在がささやかれる謎の男 ジョン・ポールを追う。果たして虐殺の王 ジョン・ポールとは何者なのか。大量虐殺を引き起こす「虐殺の器官」とは何なのか。現代の罪と罰を描破する、ゼロ年代最高のフィクション

〈あらすじ〉
近未来の世界。ほとんどの病気や健康リスクは未然に防がれるようになっていた。そんなある日、人々が一斉に自殺するという謎の事件が発生する。監察官として捜査を進めるトァンは、事件の背後に13年前に死んだはずの親友・ミァハの影を感じとる。『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点
そして2009年3月、34歳で逝去。デビュー後の活動期間は、わずか2年ほど。
彼が遺した未完の長編「屍者の帝国」は、同時期にデビューし親交のあった作家・円城塔によって完成され、2012年に刊行されました。さらに2015年には「遺志を受け継ぐプロジェクト」として、他2作と併せてアニメ映画化もされています。
伊藤計劃という作家の仕事は、彼の死によって終わりませんでした。別の誰かの手と口によって、続きが語られたのです。

〈あらすじ〉
19世紀末、社会では、死人に新たな命を吹き込み労働に活用することが可能になっていた。そんな中、ロンドンの医学生ワトソンが死んだ親友を違法に蘇生。彼はやがて諜報機関に引き抜かれ、「生者のように意思を持ち、言葉を話す最初にして最後の屍者 ザ・ワン」が残した「ヴィクターの手記」を回収するよう命じられるがーー
そして小島監督もまた、その死を深く悼んだ1人として知られています。
翌2010年発売の『METAL GEAR SOLID PEACE WALKER』では、エンディングにて「この『PEACE WALKER』を伊藤計劃氏に捧ぐ」 という献辞が収録され、小島監督は今日に至るまで度々彼へ言及しています。
では、小島監督は伊藤計劃が描いた「決定論的人間観」に、完全に同意していたのでしょうか。小島監督がメタルギアシリーズを通じて一貫して描き続けてきたテーマを振り返ると、そこには「遺伝子」と「意志」の葛藤があります。
遺伝子と記憶に縛られた人間が、それでも自らの意志で何かを選ぼうとする姿。『MGS2』でソリッド・スネークが「俺達は伝えなければならない」と語るとき、『MGS3』でネイキッド・スネークがザ・ボスの意志を受け継ごうとするとき、そこには常に「苦悩する人間が、それでも何かを選ぼうとする」という命題が息づいていました。
これは伊藤計劃が虐殺器官で描いた冷徹な人間観と、どこかで静かに相反しています。
結論を先に述べると、小島監督は伊藤計劃氏が描いた「人間そのものがどうしようもないのだ」とする「内因による決定論」への絶望を、『MGSV:TPP』にて「声帯虫」という「外因」に置換することで、人間が尊厳を守れる事を主張し応答としたのではないか――というのが、本稿の主旨です。
「虐殺器官」における〈虐殺の文法〉
伊藤計劃の処女作「虐殺器官」の主題は、一言で言えば「言語が人間を支配しうる」というものです。そしてそれは、他に類を見ない概念で表現されています。作中に登場するのは物質的な兵器ではなく、洗脳手段でもありません。
その概念は「虐殺の文法」と呼ばれる、人間の脳内に潜在する暴力性を強制起動させる特定の言語パターンです。
この「文法」を含む言論を一度でも聞いた人間は、抗うことができません。道徳も、理性も、愛情も、すべてがこの「文法」の前に無効化され、人間は虐殺へと駆り立てられます。
これは決して絵空事ではなく、現実に起きた(そして起きうる)悲劇の抽出であると言えます。史実においても第二次大戦期のドイツにおけるヒトラーの演説と魔術的プロパガンダ、1994年ルワンダの「千の丘自由ラジオ」から発信された虐殺への具体的指示などに確認された機能の究極の定義であり、言語という「生理的装置」の恐ろしさを浮き彫りにしています。
前にもジョン・ポールが言っていた。ナチス政権下のドイツでは、ユダヤ人もそれを喋っていた、と。
つまりこれは、個人レベルではなく、ある程度の個体に感染した段階で、社会的にその機能を発揮するモジュールなのだ。
脳の中の価値判断がある方向に捻じ曲げられ、虐殺が起こるよ、皆殺しが起きるよ、そういうムードを醸成する
ーー文庫新版「虐殺器官」 P366より
重要なのは、この暴力の引き金が人間の「外側」にあるのではなく、「内側」に原因するものである、つまりは「内因」であるという点です。
「虐殺の文法」により発する行動は、外から押し込まれた異物ではありません。それは人間の本能の構造そのものを突きます。人間という生物が持ち続けてきた暴力の本能を、言語がただ解放するに過ぎないのです。
それゆえこの設定は、ある種の絶望として機能します。
「人間が暴力を振るうのは、洗脳されたからでも、毒を盛られたからでも、悪魔に憑かれたからでもない。それは、人間が人間であるという事実そのものの帰結であり、この機能を持つ人間そのものがどうしようもないのだ」と。
そして「そうであるならば、人間の尊厳とは何か。意志とは何か」と問い返す読者に対し、伊藤計劃氏は決して安易な答えを用意しませんでした。それが彼の誠実さであり、同時に彼の作品が残し続ける後味の苦さでもあります。
声帯虫という「外因」
さて、ここで2015年発売の『MGSV:TPP』に登場する「声帯虫」の設定を振り返りましょう。

この設定は、多くのプレイヤーを困惑させました。核や生物兵器、PMCといったリアリズムを積み上げてきた世界観の中に、突然「太古の昔に存在した未知の寄生虫が人間の声帯に宿り、特定の言語を発音した際に病原体を拡散する」というスケールの異なる設定が挿入されたからです。
『メタルギア』は長く、現実の軍事や政治との接続を大切にしてきたシリーズでした。その文脈において、「声帯虫」は明らかに浮いていたのです。しかし、その「浮き方」に着目すると、違う景色が見えてきます。
声帯虫が「虐殺の文法」に酷似した機能を持つことは、熱心なプレイヤーの間でもたびたび指摘されてきました。特定の言語と紐づいた大量死のトリガー、言語が兵器になるという発想、そして民族的・言語的な特定集団を標的にし得る残酷さ。その構造的な類似は、偶然とは考えにくいものです。
しかし、ここが決定的に重要な点です。「虐殺の文法」は「内因」であるとは上述した通りですが、一方「声帯虫」は「外因」です。
「虐殺の文法」は、人間の本能という内側の構造に直接作用します。言語によって解放される暴力の回路は、人間である以上すでに内部に存在している。いかなる道徳も理性も、それを止められない。これが伊藤計劃の提示した絶望の骨格です。
対して声帯虫は、外から来る寄生虫です。それは確かに人間の声帯に宿りますが、人間の「本質」ではありません。外側からやってきた、別の生物です。
この設定の差は、一見すると些細なSF的ディテールの違いに見えるかもしれません。しかしこの「外因」という設定の選択こそが、小島監督の思想的意図の核心ではないかと、筆者は考えます。
Quiet
声帯虫が外因である以上、そこには一つの選択肢が残ります。「沈黙」、です。
「言葉を発しない」という選択です。声帯虫は声によって活性化・拡散します。言葉を発することを選ばなければ、少なくともその個人は他者への伝播を止められます。
これは「虐殺の文法」には存在しなかった選択肢です。一度でも「文法」を聞いてしまった者には、抗う術はありません。しかし声帯虫であれば、「聞かせない」「話さない」という選択によって、少なくとも個人の意志が介入できる余地が残されています。
そしてこれは、作中のスナイパー・クワイエットの在り方と深く結びつきます。彼女は自らの喉に寄生する声帯虫を知りながら、思いのために言葉を封じ続けた。その選択は非常に逆説的です。

人間にとって言語とは、意思疎通のための最も根本的な道具であるにもかかわらず、彼女はその道具を自ら捨てるのです。しかし、彼女が捨てた「言葉」は人間としての尊厳を失うことを意味しませんでした。むしろ言葉を持たないことによって、彼女はより純粋な形で「誰かを守る」という意志を体現しています。
言語に支配されることを、言語を捨てることで拒んだのです。
人間が言葉を紡ぎ、伝播させるシステムだとすれば、クワイエットはそのシステムを沈黙という選択によって停止させました。システムの外に出ることで、人間としての意志を守ったのです。
私が彼らと共有した言葉は……いや、それは言葉ではなかった
だから私は……彼らに感謝の言葉を使い
また静寂にかえるのだ
私は「クワイエット」
私は……言葉ではない
ーー『MGSV: TPP』 ミッション「静かなる消失」より
もし声帯虫が内因であれば、この選択は意味をなしません。人間の本質そのものが暴力に向かうのであれば、沈黙しようとも、距離を取ろうとも、その本質からは逃れられない。しかし外因であるからこそ、「選ぶ」という行為が可能になります。
痛みを伴い、孤独を伴い、愛する者への言葉すら犠牲にしながらも、人間は選べるのです。
Project
声帯虫という設定の「唐突さ」は、しばしばシリーズとしての整合性の欠如として批判されてきました。それは確かに一面の真実を捉えています。しかし筆者には、この「唐突さ」こそが意図的な選択の痕跡に見えます。
SF的に整合性を取るならば、より自然な設定があり得たはずです。ナノマシンによる行動制御、電磁波による脳波操作、あるいは「虐殺の文法」そのものを援用した言語兵器。『メタルギア』の世界観はそれらをいくらでも収容できます。
それでもなお「寄生虫」という、生物的な「外から来るもの」が選ばれたことには、世界観の整合性よりも優先された何かがあったのではないか。そしてその「何か」とは、「人間の本質そのものが暴力に向かうという命題を、受け入れられなかった作家の返信ではないか」と筆者は考えるのです。
「人間が単なる情報の処理系に過ぎないのであれば、なぜ我々はこれほど人間の物語に心を動かされるのか」――小島監督はずっとそう問い続けてきたクリエイターです。
声帯虫という歪な設定は、世界観上の欠点と見ることもできます。しかし同時に、それは思想上の主張の痕跡ではないかと思えるのです。
伊藤計劃が描いた「決定論的な人間観」を、小島監督は「痛みと共に選ぶ自由」という形で強引に、しかし切実に書き換えようとした。「人間は言葉に支配されるだけの機械ではない」という主張を、「あがき続ける自由意志の尊さ」を、整合性よりも優先してでも、作品の中に刻み込もうとしたのではないか。
それは、最大の尊敬を持ち、理解しながら、しかし完全には同調しなかった盟友への、切実な応答だったのではないか。自身のミームを受け止め切った最高のファンの遺した思想に対し、「天才」という呼ばれ方をほしいままにした夭折の小説家に対し、作り手として向き合い、対話し、そして受け取ったミームをさらに伝えようとしたのではないでしょうか。
ここで改めて明示しておきたいのは、ここまで述べてきた考察はあくまで筆者による推論に過ぎません。小島監督がそのように明言したことはありません。
しかし筆者には、そう思えてならないのです。なぜなら、下に引用するように、伊藤計劃はそう望んでいたのですから。
「これがわたし。
これがわたしというフィクション。
わたしはあなたの身体に宿りたい。
あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。」
ーー 伊藤計劃「人という物語」(2015年、「伊藤計劃記録」より)
言語が人間に寄生するものならば、その寄生体がもたらす病とどう向き合うかは、我々人間に委ねられています。
伊藤計劃は問い、答えを渡しませんでした。それに対し小島監督もまた、接続せずにはいられなかったのではないかと、筆者は考えます。
そして今、その問いはさらに遠くへ運ばれようとしています。
今年 2026年三月、2016年に始動が報じられて以来沈黙していた『虐殺器官』の実写化企画が、韓国の映画監督 パク・チャヌクの手で、現在も静かに続いていることが明かされました。パク監督は「原作が生まれた時代とは状況が変わった。今の世界に合わせて、何ができるかを探っている」と語っています。
伊藤計劃のミームは、円城塔が未完の原稿を継いだように。 多くの関係者によりアニメ映画として結晶したように。 そして小島監督が声帯虫という形で、別の答えを返したように。 いまは国境すら越え、別の創作者の手で、さらに変容し伝播されようとしています。
夭折の作家を語り継ぐこと、対話し、伝え続ける営み。それそのものが、彼への返答なのかもしれません。
そして今日、その営みには名前があります。
Project Itoh と。
【参考/引用】
新版「虐殺器官」伊藤計劃 早川文庫JA(2014年発行)
「メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット」伊藤計劃 角川文庫(2008年発行 小島監督へのインタビューを含む)











