海外ゲーム、いわゆる“洋ゲー”が今のように日本で当たり前に遊べるようになる以前、それらを日本へ届けるためには、ただゲームを翻訳するだけでは済まない数え切れない苦労がありました。
その最前線で40年以上にわたり、日本と海外ゲーム業界の架け橋となってきた人物がいます。それが、本多慧氏です。
ビクター音楽産業でゲーム事業を立ち上げ、『ダンジョンマスター』を日本に持ち込み、EAビクターでは『テーマパーク』『ウルティマ オンライン』『FIFA』など数々の海外タイトルを国内に展開。その後はアイドス日本法人を率い、『トゥームレイダー』や『ヒットマン』などの日本展開にも携わりました。
今回は、Apple IIに夢中だった時代から、EAビクター、アイドス、そしてNEXONでの仕事まで、日本のゲーム史とともに歩んできた本多氏に、洋ゲー黎明期の知られざる舞台裏を伺いました。

音楽業界からゲーム業界へ──Apple IIがキャリアを変えた
――まず、本多さんがゲーム業界へ入るまでのお話からお聞かせください。
本多:私はもともとゲームではなく、音楽業界の人間でした。当時はビクター音楽産業で洋楽アーティストの契約を担当していて、日本でプロモーションをしたり、来日したときの取材をアレンジしたり、そういう仕事をずっとやっていました。
ディスコブームの火付け役みたいな動きもして、コモドアーズ、アラベスク、ドナ・サマー、ヴィレッジ・ピープル、スタイリスティックス、ヴァン・マッコイ、ボーイズ・タウン・ギャングなど、海外のレコード会社と契約して日本で作品を販売したり、オリエンタル・エクスプレスやファンキー・ビューローなど国内でも新しいアーティストをプロデュースしたりしていました。その頃、ビルボード誌がニューヨークで開催していた「DISCO FORUM」というイベントがあって、国際部門最優秀宣伝マンとして米国外から唯一表彰されたこともありました。
そんな音楽関係の仕事をしている傍らで、並行して個人的にApple IIにも夢中になっていました。工学部出身だったこともあって、BASIC的な言語でちょっとしたゲームや実用ツールを作ったり、市販のゲームを遊んだりしていました。
遊んでいたタイトルとしては、『Star Blazer』『Choplifter』『Lode Runner』『Crisis Mountain』『Castle Wolfenstein』『Time Zone』などが挙げられます。そのうち、『チョップリフター』と『バルダーダッシュ』の2作はビクター音楽産業がゲームボーイ版を発売しました。
Apple IIが流行った影響もあって、日本でも PC-88やFM-7などPCの文化が広がってきて、ゲームの会社もいろいろできて、活発になりはじめていました。その流れは音楽業界に身を置いていた私としても、無視できるものではなかったんです。
当時の洋楽といえば、契約したものを輸入して、レコード盤に焼き付けて物理的に販売するというものでしたが、目に見えないソフトウェアがデジタルで配信されるような時代は確実に来ると思っていました。そう思ったとき、ソフトウェアに載せられるのは音楽だけではなく、映像もプログラムもゲームもあり得て、ソフトウェアの形は変わっていくと思ったんです。だからこそ、レコード会社のあり方として、ゲームから入って、自分たちで勉強していくべきだという思いから始めたんですよ。
――そして、1983年にゲーム事業をはじめられると。
本多:この頃、日本では初期のゲーム業界はすでに出来始めていました。そんな中、私は1983年に音楽事業から離れて、「PS(パソコン・ソフト)制作課長」になったんです。ただ、最初は自分たちだけで作っていたのですが、ゲームエンジニアを育ててきたというバックグラウンドはありませんでした。
とはいえ、開発部隊を作らなければいけない。レコード会社ですから、もともとは音楽事業から始まっていますし、新しいことを始める必要がありました。
そこで秋葉原で知人から人材を紹介してもらいました。高級言語を書ける人は結構いたんですが、当時はマシンの性能が低かったので、アセンブリ言語ができないと厳しかったんです。昔、新潟鐵工所のプログラマーが50人~100人単位で会社を辞めたという大きな出来事がありました。その流れで独立した、とても優秀なエンジニアがいて、その人に初期の頃は手伝ってもらいました。
ゲーム全体はBASICで作りつつ、グラフィックやサウンドの処理だけは高速化していました。例えば、BASICにはない命令を独自に追加して、「ANIME1」「ANIME2」といった高速アニメーション用の命令を用意したんです。そういう独自改造したBASICを社内専用で作っていました。
――その中で、自社タイトルを発売していきますね。
本多:その環境では、アドベンチャーゲームの『新・竹取物語』や、麻雀ゲームの『雀豪』、音楽ソフトの『ミュージアム』などを作り始めました。ただ、世の中の進歩があまりにも速く、そうこうしているうちに任天堂のファミリーコンピュータが登場して、一気に時代が変わります。
もともと洋楽を扱っていたこともあり、海外とのつながりがあったので、「海外の面白いゲームを任天堂ハード向けに出せないか」「PC-9801など性能の上がったPC向けに出せないか」と考えるようになりました。
当時は毎年「CES(Consumer Electronics Show)」という展示会が開催されていました。冬はラスベガス、夏はシカゴで開かれていて、ゲーム業界向けのエリアも設けられていたんです。毎年、世界中のゲーム関係者が集まり、顔を合わせて情報交換をする。その中で人脈が広がり、お互いにライセンス契約を結んだり、ゲームを紹介し合ったりするようになっていきました。
その流れを受けて、イギリスでもゲーム専門のトレードショーが始まり、そちらにも毎年足を運ぶようになりました。当時の日本は、PCゲームに関しては海外より一歩遅れていた印象があります。初期の頃は、私たちも海外のゲームを「買う側」であることの方が多かったですね。
その後、日本でもスクウェアやエニックス、日本ファルコムなどが面白いRPGを次々と生み出し始めます。そこからは、日本と海外がお互いにゲームを売ったり買ったりする時代になっていった、という流れでした。
『ダンジョンマスター』とローカライズ・カルチャライズ黎明期──海外ゲームを日本へ届ける仕事
――海外のゲームを買う中で、特に印象的だったものはありますか。
本多:『ダンジョンマスター』ですね。開発元はサンディエゴにあったFTL Gamesというところで、当時日本のPCを何台か現地に持ち込み、彼らに移植作業をしてもらっていました。
ただ……これがとにかくバグだらけでどうしようもなかった(笑)。これは『ダンジョンマスター』やFTL Gamesに限った話ではなく、海外作品を扱い始めた初期の頃は、ほとんどがバグとの戦いでした。ある程度の段階まで開発したものを日本へ持ち帰り、そこからはこちらの手元で確認する。学生アルバイトのテスターを大勢雇って、とにかくゲームをプレイしてもらいました。
見つかったバグには重要度ごとにランクをつけて、海外の開発会社と毎日のようにやり取りしました。「このランクのバグを直してもらわないと発売できません」と伝えて、ひとつずつ修正させていくわけです。
ですから、契約条件をめぐる交渉が終わった後は、発売までずっとバグとの戦いでしたね。意外といい加減なんです(笑)。
一方、日本では、その後に任天堂が非常に厳しい品質管理の基準を作りました。カートリッジで発売してしまうと、後からバグを修正できません。そのため、発売前に徹底したテストを行っていたんです。
任天堂をきっかけに、そうした厳格な品質管理の文化が日本のゲーム業界全体へ広がっていきました。やがて各メーカーも同じような品質を求めるようになり、それに達していない海外製品は、なかなか受け入れてもらえなくなりました。
海外の開発会社と日本のメーカーの間に立ち、海外側をどう説得するのか。そして、どうすれば日本市場で販売できる品質まで持っていけるのか。そこが、私たちの仕事でしたね。
――なるほど。苦労が偲ばれます。
本多:アメリカの会社を説得するときには、よく自動車を例に出していました。
「どうして日本ではアメリカ車があまり走っていないのかわかる? ドイツ車はたくさん走っているのに、アメリカ車は少ないでしょう。だって、あなたたちは右ハンドルの車を作ってくれないからだよ」と。
製品をそのまま持ってくるだけでは、その国では売れません。その国の文化に合わせて、ローカライズ、あるいは“カルチャライズ”していかなければいけない。ゲームも自動車と同じなんだ、という話をいつもしていました。最初の頃は、相手もぽかんとしていましたね(笑)。
言葉についても説明しました。例えば英語では「you」の一語で済むところでも、日本語には「君」「お前」「あなた」「あなた様」と、さまざまな呼び方があります。その言葉遣いだけで、登場人物同士の距離感や力関係まで伝わるんです。
そこを単純に機械的な翻訳で「あなた」「私」と置き換えてしまうと、物語の深みが失われてしまう。言葉の意味だけでなく、その背景にある文化や人間関係まで含めて翻訳しなければ、作品の魅力は日本のユーザーに伝わらないんだ、と説明しました。
まずは、そうした文化の違いとローカライズの必要性を相手に理解してもらう。そのうえで、日本向けに内容を手直しするため、ソースコードを提供してもらわなければなりません。しかし、これがまた大変でした。最初は「ソースコードは出せない」と言われることが多く、その交渉から始めなければならなかったんです。
――いまもよく聞かれるお話ですが、当時は大変な苦労があったことが想像できますね。
本多:そうした海外メーカーとの仕事の中で、大きな転機になったのが、ルーカスフィルムがゲーム事業へ参入したことでした。『インディ・ジョーンズ』や『スター・ウォーズ』、さらにオリジナル作品の『LOOM』など、数多くの優れたゲームを手がけ始めたんです。

PCゲームであれば、自社で製造・販売できます。しかし任天堂向けタイトルは事情が違いました。カートリッジは製造前に代金を支払わなければならず、『スター・ウォーズ』のような大型タイトルになると、数十万本、場合によっては数百万本規模の製造費を先に用意する必要があります。キャッシュフローの面で、それは非常に大きな負担でした。
そこで私は、ルーカスフィルムに新しいビジネスモデルを提案しました。「開発はあなたたちが担当してください。その代わり、マーケティングや製造費、営業費用はこちらが負担します。共同ブランドという形で展開しませんか」というものです。
最初は従来どおりライセンス契約を前提に話を進めていましたが、ルーカスフィルムはそれを望みませんでした。本当にこだわりの強い、わがままな会社でしたね(笑)。ただ、その分作品づくりへの情熱も並外れていました。
そんな中、こちらが共同ブランドの話をすると、担当部長が「今、何と言った?」と身を乗り出したのを覚えています。私が提案したのは、利益を単純に折半するのではなく、まず開発費を回収し、その後にマーケティング費、営業費を順番に差し引き、最後に残った利益を50対50で分けるという仕組みでした。
開発会社にとっては、開発費を最優先で回収できるためリスクを大きく減らせます。一方で、マーケティングや営業のリスクはこちらが負担する。双方にメリットのあるスキームでした。その結果、JVC(日本ビクター)とルーカスのジョイントブランドが誕生します。欧米市場では大きな成功を収めました。
一方、日本では期待したほどのヒットにはなりませんでした。当時の日本では、任天堂などが送り出すゲームの完成度や奥深さが非常に高く、海外タイトルはやや物足りなく感じられたのかもしれません。ただそれでも一定の成果は上げることができました。
その後、PCエンジンが登場します。私たちはハード参入が後発だったため、先行メーカーに比べると不利な立場でした。先に参入したメーカーはノウハウを蓄積していましたし、任天堂やセガとも強い関係を築いていて、有力タイトルでは販促支援なども受けていました。
そうした中で、後発だった私たちは、ハドソンさんにさまざまな面で助けてもらいながら事業を広げていきました。
――ハドソンも、ゲームハードに初参入する立場でしたもんね。
本多:当時のビクターにはPCゲームだけでなくビデオ事業もあったので、その中間のようなソフトもいろいろと手がけました。例えばデジタル恐竜図鑑のような『マジカルザウルスツアー』や、『ウルトラボックス』というディスクマガジン、女子高の制服図鑑ソフトを出したりと、CD-ROMという媒体を生かしたゲーム以外のタイトルにも挑戦していたんです。
アメリカ市場でも初期の頃は積極的に展開していて、それなりの成果を上げていました。その中でも特に評価されたのが、シカゴの会社と共同で手がけた『シャーロック・ホームズの探偵講座』です。もともとはPC向けに開発された作品でしたが、それをPCエンジン向けに移植し、アメリカでは高い評価を受けました。
そんな頃、エレクトロニック・アーツ(EA)が一度、日本法人を立ち上げたことがありました。ところが、3年ほどで事業をたたみ、当時流通・販売をしていたソフトバンクに大量の不良在庫を残したまま撤退してしまったんです。
そこで私はEAに、「いろいろサポート体制を組むので、今度はビクターと組んで、もう一度日本市場に挑戦しませんか」と提案しました。
当時、EAのゲームパッケージは黒い縁取りのデザインが特徴でした。海外ではスタイリッシュなデザインだったのでしょうが、日本では黒枠は遺影や葬儀を連想させます。「日本では黒枠はお葬式のイメージなんですよ。楽しいゲームなのに、全部黒枠で売っていたら受け入れられませんよ」そんな話もしました。
さらに、「前回は日本市場を十分理解しないまま事業を進めてしまったうえ、撤退時には大量の在庫を流通に残して帰ってしまった。そのせいで取引先からの信用も落ちています」と率直に伝えました。
そのうえで、「今度はビクターの名前を前面に出した共同ブランドにしましょう。私が責任者として取引先へ謝罪にも回ります。ビクターが責任を持って一緒に事業を進めます」と提案し、失われた信頼を取り戻すところから始めようと説得しました。その結果、EAとの合弁会社を設立し、まずは5年間の契約で共同事業をスタートさせることになります。5年後に改めて次のステップを考える、という条件でした。
私はその間、エレクトロニック・アーツ・ビクターの社長と、ビクターのニューメディア事業部長を兼任していました。その後、ビクターは資本を引き揚げ、EA単独の会社になりましたが、当時としてはかなり大きな組織でした。設立当初は社員57人ほどで、最盛期には200人を超えていましたよ。
――かなり大きな会社だったんですね。
本多: そうですね。ただ、当時のEAには、日本市場ですぐにヒットするようなタイトルがあまりありませんでした。『ロードラッシュ』のような作品はありましたが、日本で看板になるタイトルは少なかったんです。
その頃、EAは任天堂とはあまり良い関係ではなく、どちらかというとセガ向けタイトルが中心でした。
そこで、いわゆるマニアのファンのために、英語版の作品をシリーズ化して、パッケージとマニュアルだけ日本語化して、そのまま発売しました。意外と評判が良くて、一定の本数も出ました。
――海外タイトルだけではなく、日本向けのオリジナル作品も増えていきますね。
本多: そうですね。海外タイトルだけでは日本市場では弱かったので、漫画原作の麻雀ゲーム『スーパーヅガン ハコテン城からの招待状』や『ジーコサッカー』など、日本のユーザーに親しみのあるオリジナルタイトルも積極的に制作しました。また、海外の他の会社のライセンスを受けて、日本で発売した作品もあります。
『テーマパーク』『ウルティマ オンライン』『FIFA』を日本へ
――それが転機になったようなタイトルはあるんですか。
本多:『テーマパーク』は結構売れましたね。開発のブルフロッグはイギリスの会社ですが、当時、ヨーロッパで売れているものと日本市場は親和性が高いと感じていたんです。
――そうなのですか。少し意外です。
本多:PCゲームでも、アメリカで売れるタイトルと日本で売れるタイトルは少し傾向が違っていて、ヨーロッパのゲームの方が日本でも受け入れられやすい印象がありました。『ポピュラス』や『テーマパーク』はまさにそうで、『テーマパーク』はPCだけでなく、スーパーファミコンやPlayStationなど、さまざまなプラットフォームへ展開しました。
当時のEA本国では、アメリカでは『テーマパーク』はあまり売れなかったので、続編が開発中止になっていました。そんな中、自分たちでやるべきだと思い、『新テーマパーク』を日本完全オリジナル作品として開発する……なんてこともありました。
――そうだったのですね。かなり、アグレッシブな動きをされていたんですね。初代『テーマパーク』の開発には、意外な人物も関わっていたとか。
本多: 『テーマパーク』のプログラマーが、デミス・ハサビスだったんです。現在はGoogle DeepMindを率いていて、2024年にはノーベル化学賞を受賞した人物ですが、当時は19歳の天才プログラマーでした。非常に協力的で、いろいろと力を貸してくれたので、彼とはいつも仲良くしていました。

その後、彼は『テーマホスピタル』などを手がけて、さらに『テーマリパブリック』というゲームも作り始めました。
――どのような構想だったのでしょうか。
本多: 共和国そのものを運営するゲームです。人口を増やし、経済を発展させ、国家を安定させる。食料やさまざまな要素まで考えなければならない、非常に壮大な作品でした。ただ、当時もっとも性能の高いPCを使っても、処理が重すぎてまともに動かなかった。ゲームにならないほど遅くて、結局は断念したんです。
その後、彼は会社を売却して大学へ戻り、研究の道に進みました。そして最終的に、タンパク質の立体構造に関する研究でノーベル賞を受賞した。すごい経歴ですよね。
――本多さん自身は、当時ほかにどんなゲームに興味を持っていましたか。
本多:私は個人的にオンラインゲームへものすごく興味がありましたし、ネットワーク配信の時代はすぐに来ると思っていました。
というのも、EAビクターを始めた頃は、日本ではまだインターネットもEメールもほとんど普及していませんでしたが、それでも私はラップトップPCを持たされて、海外とはEメールでやり取りしていたんです。
当時のマイクロソフトのOSでは、まだ漢字を扱えなかったのですが、エンジニアに改造してもらい、データの送り方を工夫すれば日本語も使える仕組みを作りました。
会社には日本製のPCを何台か置いて、社員全員がネットワーク上の日本語文書を印刷できるようにしたんです。あれは世界でも非常に早い取り組みだったと思います。アメリカから優秀なエンジニアにも何人か来てもらって、社内ネットワークを作りました。いろいろな意味で最先端を走っていて、本当に面白い時代でしたね。
――その後、オンラインゲームへの関心は、どのような仕事につながっていったのでしょうか。
本多: 当時、Origin Systemsという会社がありました。『ウルティマ』シリーズは、もともと日本ではポニーキャニオンがライセンスを受けて販売していたんです。
あるとき、九段下で開かれた業界の集まりに参加していました。会合が終わって、私が外でタクシーを待っていたら、外国人がひとり歩いてきた。よく見たら、Origin社長のリチャード・ギャリオットだったんですよ。
声をかけて自己紹介をして、「どこに泊まっているの?」と聞いたら、近くのホテルだという。それなら送っていくよ、と話して、時間があるなら一杯飲まないかと誘いました。そこでいろいろ話をして、意気投合したんです。
彼はテニスが大好きでした。ホテルの屋上にテニスコートがあったので、日本へ来るたびに連絡を取り合い、一緒にプレイするようになりました。最初から将来的には契約を取りたいと思っていましたが、当時はポニーキャニオンとの契約がありましたから、すぐには動けませんでしたね。
――その後、OriginがEAに買収されることになります。
本多: 彼とはかなり親しくなっていて、EAから買収を持ちかけられていることも相談されました。「どうしたらいいと思う?」と聞かれたんです。
私は、これからオンラインの時代が来るし、家庭用ゲーム機の性能も上がって、ゲームの売り方そのものが変わっていくと考えていましたので、Originが自分たちだけで直接販売する形では、いずれ対応できなくなるかもしれないと。
それなら、大きな流通網を持つ会社と一緒になって、Originは開発に集中した方がいいんじゃないか、とアドバイスしました。結果的には「EAと一緒になった方がいい」と勧めていたわけですが、いざ一緒になってみたら、実は私もEA側にいたという(笑)。
――そのつながりから、『ウルティマ オンライン』の開発にも関わったのでしょうか。
本多: そうですね。Originはテキサス州オースティンに会社があり、そこで本格的なオンラインゲームとして『ウルティマ オンライン』の開発を始めました。

私も何度も現地へ行って、開発途中のものを見せてもらいました。ある程度完成した段階では、ベータテストにも参加させてもらいました。開発の状況をよく知っていたので、日本で発売するときには社内にも専用の体制を作り、一気に展開できたんです。
発売時には、秋葉原で前日の夜からお客さんが並びました。PCゲームとしては、『ドラクエ』以外であれほどの行列ができたのは初めてだったと思います。
――販売やサービスはスムーズにいったのですか。
本多:当時、プレイのためのパスワードを発行できるアカウント数に限りがあったので、少し苦労しました。たとえ何千人が買いに来ても、それだけの人数をすぐに受け入れることができなかったのです。
世界中からどれほど反響があるのかわからなかったため、サーバーの枠はアメリカ側が多く確保していて、日本には少ししか割り当てられていませんでした。そのため、希望する全員には販売できず、順次受け付ける形にせざるを得なかったんです。
ところが、結果的に特に売れたのが日本とドイツでした。『ウルティマ オンライン』はその後も長く運営され、EAにとって20年近く安定して利益を生むタイトルになりました。
初期の頃はカスタマー・サポートに8台の電話があって、それぞれが8人までの待機を認識できるのですが、64人がフルで待っている状態が営業時間中続いたこともありました。
最初はゲーム本体と3か月分の利用料を合わせて9,800円ほどだったと思います。その後、料金体系は何度か変わっていきました。
――興味深いお話です。他にヒットした作品はありましたか?
本多: 『FIFA』ですね。ただ、最初の『FIFA』は、サッカーゲームとしてかなり問題がありました。選手がボールを蹴っているのに、足とボールが離れていたり、オフサイドの仕組みすら十分に入っていなかったりしたんです。「これではサッカーゲームとは言えないでしょう」と。
『FIFA ロード・トゥ・ワールドカップ98 ワールドカップへの道』を発売するときには、日本からメインのエンジニアとサブのエンジニア、さらにテスターなど5人を現地へ送りました。世界同時発売に間に合わせるためです。
ところが、現地では開発途中のソースコードを見せてもらえなかった。それには本当に腹が立って、大げんかになりました。それなら前年のソースコードでいい、と。1年前のバージョンをもとに、オフサイドの処理を入れ、選手の足とボールが離れている部分を直し、ほかのおかしな箇所も日本側ですべて修正しました。
現地へ送ったスタッフに加えて、日本でも並行してテストを行い、「これなら日本で発売できる」という状態まで仕上げました。結果的に、日本向けには海外版とは大きく異なるバージョンを作ることになったんです。
――その日本版は、かなり売れたのでしょうか。
本多: 日本では唯一の正式FIFAライセンスであったこともあり非常によく売れました。ただ、その前年に5年間の契約期間が終わり、移行期間を含めた6年で私はEAビクターを退任しました。
――その後も『FIFA』シリーズ自体は、大きく成長していきます。
本多: そうですね。現在は韓国のNEXONが『EA SPORTS FC Online』(旧『FIFA Online』)を長く運営していて、大きな売り上げを上げています。あのシリーズの可能性は、当時から非常に大きかったんですよ。
アイドス日本法人を率いて──『トゥームレイダー』、日本企業との提携、アジア展開
――EAビクターを退任した後は、アイドスの日本法人立ち上げに携わることになります。
本多: もともとビクター時代から、Core Designには投資していたんです。中規模タイトルをいくつか手がけていましたが、その中から生まれたのが『トゥームレイダー』でした。当初はビクターから発売していましたが、その後Core Designがアイドス傘下に入ったことで、私にも声がかかりました。
ちょうどEAを離れるタイミングでもあったので、「日本法人を立ち上げたいから来てほしい」と誘われて、一緒にアイドス日本法人を立ち上げることになったんです。
――『トゥームレイダー』の日本展開は、どのように進めたのでしょうか。
本多: 最初のバージョンはビクターから発売されて良い成績を上げていましたが、発売元がアイドスに戻ってからは、自前ですべてやるのではなく、日本では有力なパートナーと組みたいと考えていました。そこでスクウェアさんとエニックスさん、両社に相談に行ったんです。
スクウェアさんは「面白いね」と興味を示してくれましたが、なかなか返事が来なかった。一方、エニックスさんはその場で福嶋康博さんに話を通してくださり、すぐに前向きな返事をいただきました。
海外で苦戦していた『ドラゴンクエスト』の販売についても相談させてもらったのですが、続編はまだ先になるという事なので、まずゲームボーイ版からローカライズ作業を始めました。
――海外版『ドラゴンクエスト』では、ローカライズも見直したそうですね。
本多: 当時は、日本語版をそのまま英訳したような形で発売されることが多く、海外ではあまり評判が良くありませんでした。そこでPCの再販版を用意して英語だけでなく、フランス語やドイツ語などヨーロッパ各国向けも含めて、すべて翻訳をやり直しました。
RPGに詳しいプロの翻訳者や作家に依頼して、作品として自然な文章へ全面的に作り直したんです。その結果、再販版にもかかわらず海外でも何十万本という規模で売れました。やはり、お互いの市場を本当に理解していないと、ローカライズはうまくいかないんですよ。
――その後、『トゥームレイダー』の販売パートナーも変わっていきます。
本多: 最初はエニックスさんと組んでいましたが、『ドラゴンクエスト』本体の続編の発売がさらにのびたこともあり、どうしてもビジネスとして大きくは伸びませんでした。
そこで、「最初のお約束とは変わってしまいますが、再度、相談させて下さい」という形になり、最終的にはカプコンさんと提携しました。
日本ではカプコンさんが『トゥームレイダー4』『5』などを販売し、ヨーロッパではアイドスが『バイオハザード』シリーズを販売する。お互いのタイトルを交換するような形で協力関係を築いていきました。
――アイドス時代には、日本向けタイトルも手がけています。
本多: 『クイズ$ミリオネア』は、日本向けにかなり作り込んだタイトルでした。
番組との連携も重要だったので、フジテレビさんとも何度も打ち合わせを重ねました。みのもんたさんが出演してくださらないと成立しない作品でしたから、そのあたりも丁寧に調整して、最終的には出演料やロイヤリティも含めて話をまとめました。
テレビ番組とゲームの双方にメリットがある形を目指した結果、それなりにヒットしてくれました。そのほかでは、『レゴ』シリーズも予想以上によく売れましたし、PCでは『ヒットマン』や『Thief』なども高い評価を得ました。
――アイドスではアジア展開にも力を入れていたそうですね。
本多: はい。約8年間在籍しましたが、韓国や東南アジアにも積極的に展開しました。PC市場が成長していたこともあって、アジア全体ではかなり売り上げを伸ばすことができました。シンガポールに拠点を設け、オーストラリア、台湾、香港なども含めたアジア地域全体を見ていました。
ところが、ある日突然、状況が一変しました。UBSという大きな証券会社と組んだ小さなゲーム会社がアイドスを買収したんです。
朝、会社へ出勤すると、本社の役員たちは荷物をまとめさせられ、鍵も回収され、そのまま会社を出るよう命じられていました。段ボール箱を渡されて、「退去してください」と。本当に、一夜にして経営陣が入れ替わるような出来事でした。
――買収後、アイドスはどうなったのでしょうか。
本多: 結局、数年後にはアイドスは消滅しました。もともと小さな組織の会社による買収で、アイドスのメインの人材も退社してしまったこともあり、案の定、立ち行かなくなり、保有していた事業やタイトルをすべて切り売りしてしまいました。最終的にスクウェア・エニックスへ渡っていったんです。
――アイドスでの経験について伺いましたが、少し時間を巻き戻して、過去のEA時代の話も掘り下げさせてください。本多さんがEAビクターを立ち上げたのは、1992年頃でした。EAはその後、さまざまな開発会社を買収していきます。
本多: そうですね。まずOrigin Systemsを買収しました。『ウルティマ』や『ウルティマ オンライン』、『ウィングコマンダー』などを手がけていた会社です。

『ウィングコマンダー』は、もともと『スター・ウォーズ』のゲームを作りたいという発想から始まったと聞きました。実際にはライセンスを得られなかったので、独自の世界観で作ったんです。
私はちょうどLucasArtsとも仕事をしていたので、両者をつなげられないかと話をしたこともありました。Originが作ったものを、LucasArts側の希望に合わせて調整し、そちらから発売するところまで話を進めたんです。ただ、最後の最後で双方の条件が合わず、実現しませんでした。その後、Origin自体がEAの傘下に入ることになりました。
EAは『シムシティ』を作ったMaxisも買収しました。当時は200人ほどの開発部隊がいたと思いますが、組織変更や開発拠点の移転もあって、買収後に残ったのは、わずか数人だったと聞きました。
EAが欲しかったのは『シムシティ』というブランドだったんです。開発体制やゲームエンジンは作り直して、ブランドを引き継いでいく。その頃はマーケティング畑の経営者が入っていましたから、そういう考え方が強かったんでしょうね。
――『バトルフィールド』シリーズを生んだスウェーデンのDICEも、後にEA傘下となります。
本多: 私がEAビクターを退任した後でしたが、『バトルフィールド』シリーズの成功の後は、そこにいた中心人物が、その後EA全体のスタジオやプロダクトを横断的に見る立場になったと聞いてます。シリーズごとの価値を長く維持し、再活性化していく仕事です。
たとえば『シムシティ』も、同じことを何年も続けていれば、ユーザーに飽きられてしまいます。そこで、エンジンや仕組みを見直し、シリーズを長く存続させるための取り組みを行う。そうした仕事で、かなり成果を上げていました。
その後、彼は独立してスウェーデンに戻って、新しく開発会社を立ち上げました。それがエンバーク・スタジオ(Embark Studio)です。『THE FINALS』や大ヒット中の『ARC Raiders』を開発した会社です。
――車を題材にした『ニード・フォー・スピード(オーバードライビン)』シリーズは、日本ではどうだったのでしょうか。
本多: 『ニード・フォー・スピード』が出た頃は、日本でも各社から多くのレースゲームが発売されていました。
日本人がよく知っているコースを走れる作品もありましたし、SCEさんも『グランツーリスモ』などに力を入れていました。そうした競争の激しい市場だったので、『ニード・フォー・スピード』は、日本では最初から大きく売れたわけではありません。
海外車のライセンスや、日本ではなじみの薄い車種が中心だったことも影響していたかもしれません。世界的には強いブランドでしたが、当時の日本市場では、ほかのレースゲームほど一気に広がることはありませんでしたね。
ゲームは「翻訳」だけでは売れない──海外メーカーとの文化の違い
――『ダンジョンマスター』についてもう少し詳しく伺いたいです。当時は『ウィザードリィ』などのダンジョンRPGもありましたが、日本ではどのように受け入れられたのでしょうか。
本多: 俯瞰型の視点のRPGが多かった当時で、『ダンジョンマスター』は、ある意味では本当の3Dダンジョン型RPGでしたよね。北米では、最初、AMIGA版で1位を独走していました。最初はPC-9801向けに出して、その後は任天堂のハードにも展開しました。

――ライセンス獲得には、かなり苦労されたそうですね。
本多: 日本の各社が交渉していましたが、権利元のFTL Gamesを率いていたウェイン・ホルダー(Wayne Holder)が、非常に変わった人だったんです。プロデューサーであり、社長であり、エンジニアであり、作家でもある。ものすごく頭のいい人でしたが、完璧主義者で、なかなか首を縦に振ってくれませんでした。
それでも何度も足を運んで説明し、こちらの考えを理解してもらいました。最終的には、通常のロイヤリティ契約ではなく、利益を分け合うプロフィットシェア方式で契約することになったんです。
――その契約方式が、大きな利益につながったのでしょうか。
本多: そうですね。『ダンジョンマスター』は日本で非常によく売れましたから、権利元にも予想以上の利益が入りました。
後で知ったことですが、先方が雇っていたエージェントとの契約もプロフィットシェア連動になっていて、売り上げが伸びるほど、エージェントにもかなりの金額が入る仕組みだったんです。
あるとき、そのエージェントが急にBMWの新車に乗ってきたので、「どうしたんだ」と聞いたら、「これはダンジョンマスター・カーだ」と(笑)。それくらい大きな成功だったということです。
――アメリカよりも、日本で販売した方が単価も高かったんですね。
本多: 日本では9,800円で販売していました。当時のアメリカでは、その半額以下だったと思います。
日本でこれほど売れるとは、向こうも考えていなかったでしょうね。続編や派生版も含めて、当時市場にあった大部分の機種でも発売しましたので、売り上げもそれなりに大きかったと思います。初代は特に長く売れました。後で聞いたところでは、ビクターのゲームタイトルの中でも、一番売れた作品だったそうです。
――ビクター、EAビクター、アイドスと、大きく3つの時代があったと思います。ヒット作がある一方で、販売に苦戦したタイトルもあったのでしょうか。
本多: 売るのに苦戦したタイトルはたくさんありますが、なかには結局発売できなかった作品もあります。ひとつは、フランスのInfogramesが手がけた『アローン・イン・ザ・ダーク』です。任天堂かPlayStation向けだったと思いますが、どうしてもバグが取れなかったんです。
あるマップに入ると、堂々巡りになって脱出できなくなる。こちらは「直してほしい」と何度も頼むんですが、なかなか修正されない。フランス側は長い夏休みも取りますし、「そこへ行かなければいいじゃないか」というような感覚もあったんです。
でも、日本ではそれでは承認が下りません。結局、2年ほどかけても解決できず、発売を断念しました。フランスの開発者は、自分たちのやり方に強い自信を持っていて、本当にガンコなんですよ。
――バグに関しては、文化の違いもあるのですね。
本多:そうですね。アイドス時代には欧州では大ヒットしたストラテジー系の『コマンドス』というPCタイトルがありました。これは韓国ではかなり売れたタイトルです。『コマンドス』自体はよくできたゲームでしたが、日本では細かなバグを完全に取り切るのが難しかった。

日本では、 任天堂やPlayStationの時代を通じて、「少しのバグも許さない」という品質基準が根付いていました。少しでも不具合があると、熱心なユーザーからすぐに「クソゲーだ」と評価されてしまう。
だから、ものすごく気を遣う必要がありました。海外の開発会社と日本市場の間に入り、何とか修正してもらう。その交渉は、いつも頭の痛い仕事でした。洋ゲーを日本で販売する際の最大の苦労は、まさにそこだったと思います。
ソースコードを提供してもらえれば、日本側である程度は修正できました。特定の場所で動けなくなるような問題を避ける処理を入れたり、正面から直せない場合は別の方法で回避したりすることもありました。
当時は、ゲームの難易度のバランスを取ることも日本の市場では大切でした。一般的に言って、論理的な深いトラップなどは欧米に比べると日本のプレーヤーは嫌います。アクション系でも優しくするか、難しすぎる場合は、お助け的なヒントを加えたりしました。
――先ほども仰られていましたが、ソースコードを受け取れない場合もあったのですか。
本多: ありました。何年もかけて英語版を完成させると、その瞬間に開発スタッフが長期休暇へ入って、誰もいなくなってしまうことがあるんです。
こちらは日本版を作らなければならないのに、ソースコードも渡してくれない。「それでは発売できないでしょう」と言っても、作業がまったく前へ進まない。あるタイトルでは、完成間近なのになかなか進まないので、日本から社員をひとり現地へ送りました。毎日会社へ通い、デバッグも手伝わせたんです。
ところが、メインプログラマーが「夏休みだから」とガールフレンドと2週間ほど休暇へ行ってしまった。現地の社員からは「今週も来週もメインプログラマーはいません。私にはどうにもできません」と連絡が来ました。5時になると、ほかの社員もみんな帰ってしまう。そういう文化でした。
――日本から派遣された方は、かなり苦労されたでしょうね。
本多: 毎朝一番に会社へ行って、夜は最後まで残る生活を2か月ほど続けていました。「完成するまで帰ってくるな」という状態です。
ある晩、疲れ切ってホテルへ戻り、テレビをつけたら、突然BBCの画面に私の顔が映ったらしいんです。「ついに自分はおかしくなったのか」と思ったそうですよ(笑)。
たまたまBBCが日本のゲーム業界を取材しに来ていて、『トゥームレイダー』を中心に、日本とイギリスの文化の違いなどについて私がインタビューを受けていたんです。それが、彼がテレビをつけた瞬間に放送されていたんです。
――(笑)。当時のアイドスには『大刀(Daikatana)』だとか、『トゥームレイダー 美しき逃亡者』だとか、海外で低評価を受けた作品もありましたが……。
本多:『大刀』は、ジョン・ロメロが新しい会社を作るということで、アイドスが投資したタイトルです。会社はダラスにあったと思います。非常に立派な高層ビルの最上階、いわゆるペントハウスにオフィスを構えていたんです。天井までガラス張りで、普通の人なら喜ぶような豪華な場所でした。
ところが、暗い場所を好むエンジニアが多いものだから、強い日差しを避けるために、みんなが机の周りにテントや掘っ立て小屋のようなものを作って仕事をしていた。それなら、わざわざ一番賃料の高いペントハウスに入る必要はないでしょうと(笑)。
――開発も、当初の計画どおりには進まなかったのでしょうか。
本多: エンジニアを集めて壮大な計画を立てていましたが、なかなか予定どおりには進みませんでした。外形的な部分にこだわりすぎていたのか、あるいはジョン・ロメロという存在が大きくなりすぎていたのかもしれません。日本での販売権は、私たちではなく別の会社にライセンスされていました。会社名を忘れてしまったのですが……。
――ケムコですね。
本多: そう、ケムコさんです。
やはり、中心人物を過去の実績や名前だけで選ぶのは怖いことです。その人が優秀で、以前の作品が成功していたとしても、「あの成功は自分ひとりの力だった」と本人も周囲も考えてしまうことがある。
しかし、実際にはチームや環境など、さまざまな要因があって成功したわけです。著名なクリエイターの名前を信じて投資し、期待した結果が得られないという例はたくさんあります。どの会社も一度は経験しているのではないでしょうか。
――海外で低評価を受けているという情報に対して、日本のユーザーも警戒していたのでしょうか。
本多: そうした舞台裏の情報も、ある程度は日本に伝わってきますから、当然影響はあったと思います。最近であれば、事前の評価が上がらない作品は、発売そのものを取りやめたり、日本での展開を見送ったりすることも増えています。
ただ、昔の小さな会社には、それがなかなかできませんでした。すでに契約を結び、開発費や宣伝費を使っていれば、評価が悪いからといって簡単に中止することはできない。何とか発売して、少しでも回収しなければならなかったんです。
――先ほどエニックスとの仕事について伺いましたが、アイドスは日本の個性的なゲームを海外で販売することもありました。そうした日本企業と海外をつなぐ仕事にも関わっていたのでしょうか。
本多: アイドスで採用した日本人スタッフに、アメリカのゲーム業界で長く働いていた人がいました。開発にも詳しく、英語と日本語の両方が堪能でした。
イギリスに住む女性と結婚することになり、ちょうど私たちが人材を探していた時期に面接へ来たんです。その後も長く会社に残り、スクウェア・エニックスにも在籍していたと思います。
彼は、日本の少し変わったゲームに注目していました。「イギリス人からはなかなか出てこない発想のゲームですが、こういう作品を喜ぶ熱心なファンはいます」と。最初から大ヒットを狙うのではなく、シリーズを重ねながら少しずつファンを広げていく。そういう企画を立て、Fresh Gamesというブランドで日本の個性的なタイトルをいくつか海外へ持っていきました。『蚊(Mister Mosquito/Mr Moskeeto)』とか『ブラボーミュージック(Mad Maestro!)』は英国でも一定の評価を得たのですが、アイドス買収と共にそのシリーズは終了しました。
アイドス退任後もゲーム業界へ
――EAビクター時代には、失敗ハードと言われる「3DO REAL」にも多数のタイトルを展開していますね。本多さんは、当時の3DOをどのように見ていましたか。
本多: 3DOが登場したのは、私がEAビクターにいた頃です。当時、ビクターは松下電器グループでもあったので、松下電器とは親しくしていました。
松下電器の周年記念イベントに呼ばれたこともあります。世界中の社員十数万人を衛星中継でつなぐ大きな催しで、若手を集めたパネルディスカッションが開かれました。関連会社からは、ビクターを代表して私が選ばれたんです。
そんなつながりがあったので、3DOについても相談を受けました。ただ、家電メーカーとゲーム業界では、事業に対する感覚が少し違っていたんです。
――どのような違いだったのでしょうか。
本多: 任天堂のやり方は、外から見ていても分かりやすかった。ハードウェアをできるだけ安く普及させるにはどうすればいいかを考え、その上でソフトウェア市場を大きくしていく。
一方、松下電器では、製品ごとに一般管理費や人件費などを細かく積み上げて価格を決めます。そうすると、どうしても本体を高く売らなければ採算が取れなくなる。
しかし、ゲーム機は、そのハードでソフトが動くこと自体がひとつのメディアになります。まず一定の台数まで普及して、初めてソフトを含めた市場全体から大きな利益が生まれる。最初の一台から確実に利益を出そうという家電的な考え方では、なかなか成立しません。
だから、これは難しいだろうと思っていました。ハードウェアの性能が良いか悪いかだけの問題ではなく、ビジネスモデル全体の問題です。
――それでもEAビクターは、3DO向けに多くのタイトルを展開しました。
本多: 多少はお手伝いしましたし、松下電器にソフトの販促をお願いするような交渉もしました。ハードが十分に普及するまでの間、ソフトウェア会社が売れないリスクをすべて負えば、会社が潰れてしまいますからね。
それに、3DOを立ち上げたトリップ・ホーキンスは、もともとEAの創業者でした。そのため、EA本社としても全面的に協力する方針になっていました。
たとえば「初年度に10タイトルを用意する」という話があったと思います。こちらもその7~8割は予定通り発売できるように、QAやマーケティングを担当する人員までそろえていたのですが、予定していたタイトルがほとんど間に合わなかったという事もありました。
――開発や販売のための体制だけが残ってしまったわけですね。
本多: そうです。3DO自体は面白い挑戦だったと思います。ただ、誰と組み、どの企業が中心になって進めるのかは、非常に重要であり、難しい問題でした。
――PlayStationでは、ソニーが半導体まで含めた仕組みを構築していました。
本多: そうですね。ソニーはPlayStationのためのチップを内製し、それをほかの製品にも活用することまで考えていました。
当時、同じ性能のものを同じ価格では外部から調達できないという水準のチップを、久夛良木さんたちが自社の工場を使って作った。半導体やハードウェア、ソフトウェアを複合的に組み合わせ、事業全体として成立させる仕組みを考えていたんです。
一つひとつの製品だけで利益を出そうとするのではなく、全体で成り立たせる。そこが大きな違いだったと思います。また、多くのメンバーが音楽事業からの移籍組で、ヒットの作り方を含めたソフトウェアの扱いに慣れていたのではないでしょうか。
――アイドス時代のお話にふたたび移ります。ララ・クロフトは、海外ではゲームを象徴するアイコンのひとりだと思います。日本ではメールサービスの「ララメール」なども展開していましたが、当時の日本のユーザーにはどのように受け入れられていたのでしょうか。
本多: 日本では、海外ほど身近な存在ではなかったと思います。やっぱり格好よすぎるんですよね。実物大のララのマネキンの横に立ってみると、脚がものすごく長くて、ウエストも細い。みんな見つけると、一緒に写真を撮っていました。
最初のマネキンは20体ほど作られたと聞きました。ドイツかどこかのマネキン職人がララ・クロフトのファンで、自分でデザインして作ったらしいんです。それを見たアイドスが、「これなら500体くらい作ってくれ」と追加で発注し、世界中の拠点や店舗に置かれるようになりました。
イギリス大使館のイベントでも展示したことがあります。大使館の敷地にはいくつもの建物があって、それぞれホールや食事会場、展示スペースとして使われています。その中を歩いていくと、突然照明がついてララが立っている。そうすると、みんな「おおっ」と驚いて、楽しい気分になるんです。ララ・クロフトは、一時期、英国で科学技術大臣に任命されていたことがあります。
日本でも、私たちはララをアイドスの象徴として見ていました。映画ではアンジェリーナ・ジョリーが演じましたが、当時は現在ほどの大スターになる少し前でしたね。
確かE3の時だったと思いますが、任天堂がスーパーマリオ、セガがソニック、SCEがララ・クロフトを正面に立てて三つ巴の大キャンペーンを行ったことがありました。トゥームレイダーはPlayStationを代表するゲームだったという事です。
その後、アイドス自体は買収によって形を変え、シリーズはCrystal Dynamicsへ引き継がれました。ララは非常に良いキャラクターですから、過去作を作り直すだけでなく、新しいテーマや武器、新しい特徴を持たせて展開しても面白いと思います。
――『トゥームレイダー』を開発したCore Designにも、よく足を運ばれていたのですか。
本多: はい。Core Designは、イギリスのダービーにありました。トヨタの工場もある町で、ロンドンから1、2時間ほど離れた、比較的静かな場所です。近くには、昔の修道院を改装したレストランや、ゴルフコースの付いた施設もあって、会社へ行くたびにそのあたりを訪れていました。
Core Designは『トゥームレイダー』以外にも、ケルト神話を題材にしたRPGなども作っていました。期待していた作品もあったのですが、使用していたエンジンが少し古く、PlayStationではステージが変わるたびに非常に長い読み込みが発生するなど、技術的にうまくいかない部分もありました。
その周辺の作品をプロデュースしていたのが、トロイ・ホートン(Troy Horton)という人物です。彼はCore Designのシニアプロデューサーでしたが、ある時期にアイドス・ジャパンに移籍しました。日本語を勉強しながら、新しいシリーズを作りたいと考えていたのだと思います。2021年には急逝されてしまいましたが。
Core Designにいた人々も、会社の変化とともに、それぞれ別の道へ進んでいきました。関係者が亡くなったり、別の業界へ移ったりして、昔のチームは完全にばらばらになりましたね。
――他に印象的なタイトルはありましたか。
本多: 『フライトアンリミテッド』ですね。これはEAの作品ではありませんが、ボストンのLooking Glass Technologiesが開発したものです。
Looking Glassは、マサチューセッツ工科大学、MITの出身者を中心に作られた会社でした。MITの博士号を持つ人が8人ほどいたと思います。非常に優秀な人たちを集めたスタジオで、『ウルティマ アンダーワールド』なども作っていました。
このフライトシミュレーターでは、セスナ機を飛ばして航空写真を撮り、それをもとに立体的な地形を再現していました。実在する町や山の上を飛べるんです。後にシリーズ化され、さまざまな地域が収録されました。
価格も当時としては高めでした。7,800円くらいだったと思います。EAビクターを始めたばかりの頃は、EA本社のタイトルだけでは十分なラインナップを作れませんでした。そのため、こうした他社の海外作品もいろいろと扱っていたんです。
――アイドスを離れた後は、どのように過ごされていたのでしょうか。
本多: ちょうどその頃、肝臓の疾患のため数年かけて治療に専念した後、まずはゲームとは関係のないソフトウェア会社を手伝いました。「どうしても力を貸してほしい」と頼まれて、週に1日程度ならいいですよ、と引き受けたんです。その会社も、当時としてはそれなりの規模まで成長しました。
ほかにも、時間のあるときにコンサルティング会社を手伝い、英国大使館の仕事にもかなり関わりました。
私は音楽業界とゲーム業界の両方を経験していたので、イギリスのインディーレーベルを日本へ連れてきて紹介したり、イギリスのインディーゲーム会社を日本企業へつないだりする仕事です。
アイドスはイギリスの会社でしたから、在籍時代から英国大使館とはさまざまな取り組みを一緒に行っていました。
――英国大使館との関係は、アイドス時代から続いていたのですね。
本多: そうですね。英国大使館でパーティーやイベントを開催するときには、ララ・クロフトの等身大フィギュアを貸し出したこともありました。大使館の入り口に置いてもらったんです。当時の科学技術担当の外交官とも親しくしていて、いろいろなイベントを一緒に開催しました。
また、イギリスにあるSoftware Imagingというプリンター技術に強い会社がありました。キヤノンやリコーなど、日本の多くのプリンターメーカーが、同社のプリンタードライバー開発技術を利用していたんです。何年間か日本でのライセンスを受けていましたが、最終的にその会社の買収案件にも関わり、イギリスへ渡って交渉を担当しました。週に1日程度のお手伝いから始めたはずが、買収交渉まで任されることになりました。
――その頃、後にNEXONを創業する人物とも親しくされていたそうですね。
本多: NEXONの創業者であるキム・ジョンジュさんとは、後にネクソンの日本上場時の社長を務められたチェ・スンウさんを通して、アイドス時代から親しくさせていただいてました。韓国へ行くたびに会って話をしていたんです。当時のNEXONは、まだ創業したばかりでした。最初からオンラインゲーム専業の会社で、自社ビルの2階に何十台ものサーバーを並べて運営していました。
サーバーが落ちると、社員が一斉に走って復旧に向かう。30分以内にサービスを再開できなかった場合は、利用料を無料にするような運営もしていました。
途中から、現在の基本プレイ無料に近い方式へ切り替えました。ゲーム自体は誰でも無料で遊べる。その代わり、初期にはユーザーにもデバッグへ付き合ってもらいながら改善を重ね、アイテム課金で収益を得る仕組みを始めました。あのようなビジネスモデルを、かなり早い段階で成功させた会社です。
私は『ウルティマ オンライン』の立ち上げに関わっていましたから、本格的なオンライン専用MMOをサービスとして立ち上げ、運営した経験がありました。当時、そうした経験を持つ人はほとんどいませんでしたから、私に関心を持ってくれたのだと思います。
それから長く、深い付き合いが続きました。NEXONが日本へ進出した際にも、いろいろとお話しました。
――2012年からNEXONの社外取締役に就任されていましたが、その縁から、NEXONの経営にも関わることになったのでしょうか。
本多: 私が病気の治療中だったことも、キムさんは知っていました。その後、NEXONがいよいよ上場することになり、「社外取締役になってもらえませんか」と声をかけていただいたんです。それで、2012年頃からNEXONの社外取締役を務めることになりました。
当初はいろいろな出来事がありました。さまざまな会社を買収しては、うまくいかないこともありましたが、それでも試行錯誤を重ねながら会社は成長していきました。上場当時の売上げは800億円ほどだったと思いますが、それが6倍にまで大きくなりました。
――社外取締役として、具体的にはどのような役割を担っていたのでしょうか。
本多: いわゆる取締役として色々な決議に加わりましたが、私はマーケティングやグローバル展開に特に興味を持っていました。後半は監査等委員なども兼ねました。
社外取締役というのは、単に会社の外で働いている人という意味ではありません。その会社と過去に直接的な利害関係を持っていない人ということです。そうでなければ、経営陣に対して厳しい意見を言えないでしょう。関係が近すぎると、どうしてもなあなあになってしまいますから。
東京証券取引所のガイドラインでも、独立性を保つため、在任期間は9年から12年ほどが目安とされていると聞きました。私はそれより少し長く務めさせてもらいましたが、年齢も78歳になりましたから、そこで一区切りということになりました。
――振り返ると、それまでの経験がすべてつながっていますね。
本多: そうなんです。ビクターでの音楽やビデオとゲーム、EA、アイドス、オンラインゲーム、ソフトウェア・イメージングそしてNEXONと、一見するとそれぞれ別の仕事に見えますが、すべてどこかでつながっている。つまり、ソフトウェアの世界だという事ですね。音楽時代に知っている米国の弁護士とゲーム業界でも再会することもありました。
マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチー、クインシー・ジョーンズの3人とは直接お話したことがあります。その3人が中心になってUSAフォー・アフリカのプロジェクトで「ウィ・アー・ザ・ワールド」の録音のメイキングの映像を見て涙を流しました。
マイケルとは彼が13才の頃にジャクソン5のメンバーで来日した時に取材や撮影で、リッチーとはコモドアーズのメンバーの時に日米での公演ツアーやマーケティング関連で、クインシーとは家に呼ばれて数時間ワインを飲みながらディスコの話をしたことがあります。クインシーはコンピューター技術やインタラクティブな世界に興味があって、パートナーのナスターシャ・キンスキーを連れてEAを訪れた時に再会しました。
仕事というのは、そういうものなのかもしれませんね。
――興味深いお話をありがとうございました。
本多氏のキャリアを振り返ると、そこには日本のゲーム市場が海外ゲームを受け入れていく歴史そのものが重なっています。
現在では、世界同時発売や多言語対応が当たり前となり、日本のプレイヤーも海外の新作をほぼ同じタイミングで楽しめる時代になりました。しかし、その礎には、文化や商習慣の違いを乗り越え、一本一本のタイトルを日本へ届け続けてきた人々の存在がありました。
『ダンジョンマスター』『ウルティマ オンライン』『トゥームレイダー』といった数々の名作の舞台裏とともに語られた本多氏の証言は、「洋ゲー」が日本に根付くまでの貴重な歴史を知る手がかりとなるはずです。










