※「ゲームのおいたち・ゲームのあゆみ」は、ゲーム保存協会協力のもと制作されている連載です。
私たちの生きる世界に働く物理法則。計算機械、つまりコンピュータの成り立ちには、そうした物理法則・物理現象をシミュレートしようという目的が深く関わっています。さかのぼれば、人間のおこなう計算という行為じたいが、なんらかの物理現象を説明することに用いられてきたといえるでしょう。
物理法則のみならず、コンピュータは一定の法則を扱う装置として優秀です。だからこそ「ルール」を用いて遊ぶゲームとの相性は当然悪くありません。こうしてコンピュータ自身がゲーム盤となり、ゲームマスターとなり、そしてプレイヤーとして相手をしてくれるようになりました。

こうしたことから、チェスや将棋といった古典的な対戦型盤上ゲームは、コンピュータの思考と製作者の創意工夫を試す格好の場となってきました。ゲームの対戦相手を人間以外にさせるという営みじたいはコンピュータの発達以前からあり、たとえば1912年には「エル・アヘドレシスタ」というチェスの一局面を指すオートマトンが登場しています。こうして本来ふたり以上の人間を要する遊びが、ひとりで遊べるようになったのです。
先手人間、後手機械––相まみえるはゲームの盤上

時と場所を移し、日本においてはコンピュータ将棋が発展しました。ビデオゲームにおいては、プログラマ・森田和郎氏による『森田将棋』(第1作は1985年リリースの『森田和郎の将棋』)シリーズが著名な存在です。思考プログラムに長じた氏は、自身も将棋のアマチュア段位を有し、その名を冠したオセロや囲碁のタイトルも手がけています。
古典ゲームのイメージが強い森田氏ですが、実は『森田和郎の将棋』以前には現代戦をモチーフにした戦略シミュレーションゲーム『森田のバトルフィールド』(©1983,エニックス)といった複雑な判定を要するゲームも手掛けています。
本作がリリースされた1983年は『信長の野望』(光栄 現:コーエーテクモゲームス)の第一作が登場するなど日本における戦略シミュレーションゲームの黎明期と呼べる時代。しかしその画面構成や、兵種・地形による能力差、生産、領土の確保といった、現代にも通ずるジャンルの基盤がほぼ完成していることがうかがえます。
その思考ルーチンは当時としても十分に手ごわく、そして早く、人間がおこなう知的な判断に迫ろうとするものでした。こうした点が評価されてか、本作はエニックスが開催した「第1回ゲームホビープログラムコンテスト」において最優秀プログラム賞を受賞しています。

かつて、人間とおなじ土俵である物理空間に出現し、チェスをプレイしたエル・アヘドレシスタ。それと比べると、コンピュータとの対局とは抽象化・純化されたゲームルールの世界に私たち人間の側が飛び込んでいくことなのかもしれません。
「ゲーム」を舞台にはじまった、機械に人間の代わりをさせるという営み。機械と人間。思考における強弱の関係が両者でじきに逆転するであろうことは、少なくない人びとが予感していたことでした。こうして人間は、機械に対して自身の技術や思考を懸けて挑戦する段階へ突入していくことになります。しかしその裏には、機械の思考を用いて人間に対局を挑むというプログラマの技術を懸けた戦い、探究心、そして「遊び」があったことは記憶に留めておくべきことでしょう。
“Please tell me your problem. ”––自然言語による機械との「対話」
ボードゲーム的な「思考」と重なりつつも、それとはまた異なるレイヤーで、人間はコンピュータを用いてもうひとつの現象を追及してきました。それは知性や自我、意識といった類のものです。
はじめに述べた物理現象であれば、一定の条件でボールを投げた場合の運動は定まっています。これは物理法則というルールに則った動きであり、コンピュータはそれに基づいて計算を行います。一定の入力に対し、一定の結果が返ってくること。大雑把にそれを物理現象的なものとみなすなら、人間が知性や自我があるように感じるものとは、入力や刺激に対して一貫性を保ちつつランダムな応答をすることだと考えられそうです。逆に、同じような応答しか返ってこないものに対して人は、「無機的」とか「ロボットのよう」といった印象を持つことは感覚的に分かる話だと思います。
これは、現在私たちに身近な存在である生成AIを思い浮かべればわかりやすいと思います。生成AIは一定の入力に対してまったく同じ結果を返すわけではなく、別様の「それらしい」回答を千差万別に出力してきます。だからこそ生成AIはまるで人間のような知性や意識を持っているかのように思えてしまうのでしょう。
人間がふだん用いる自然言語によるコンピュータとの「対話」。それを楽しもうというソフトが、1980年代はじめに日本のコンシューマ市場で登場していました。
ひとつが1983年にアンプルソフトウェアからリリースされた『人工知能GILL』。そしてもうひとつが1984年にアスキー/工画堂スタジオからリリースされた『EMMY』ならびにそのアッパーバージョンである『EMMYⅡ』です。
同時期に登場したこれらのソフトは、ユーザーが打ち込んだテキストに対して、あらかじめ登録された語の中から適当な語を用いて返答するという対話型プログラムを有していました。こうしたものは、現在「人工知能」と呼ばれるものほど知的ではないこともあり、日本ではその後もチャットボットなどを引っくるめて、長らく「人工無能」などと呼ばれてきた歴史を持ちます。

『人工知能GILL』は石につまずき言葉を失ってしまった少女・ジルに言葉を教えていくという「設定」のもと、まっさらな彼女に対してユーザーが言葉を投げかけることで、言葉どうしの対応関係を記憶していきます。たとえば「うぉおたあ」は「みず」のこと、といった具合です。ジルはたどたどしくも機械音声によってテキストを読み上げてくれます。
『EMMY』『EMMYⅡ』も同様に、エミーという女の子との対話を楽しむことじたいが目的です。しかし『人工知能GILL』よりもゲーム的な側面があり、ある程度気に入られるようなコミュニケーションの道すじを取っていく、つまり攻略することで特別なグラフィックを見ることができるという要素がありました。『EMMYⅡ』では800語程度の言葉に対する返答のほか、ユーザーから投げかけられた言葉を記憶し、関連しそうな言葉が入力されるとそれを混ぜたテキストを返すように変化していきます。

『人工知能GILL』と『EMMY』は、知らない言葉に対してオウム返しに返答したり、会話内容をそらすといった反応をします。そうすることでユーザーとの会話のラリーをつないでみせたり、記憶したりして後に活かすのです。
彼女ら人工無能の祖先といえるのが、1966年にコンピュータ科学者ジョセフ・ワイゼンバウムが実験のために制作した対話プログラム「ELIZA(イライザ)」です。ELIZAはパターンマッチングという文章の空白箇所にユーザーの言葉を当て込むことで会話を成立させる方法を取っていました。たとえば「疲れた」という入力がされれば、「なぜあなたは疲れたのですか?」というふうに相手の発言を利用したテキストを生成します。これは心理療法のひとつである来談者中心療法をモチーフにしたもので、先の二作で用いられたオウム返しの由来となった手法です。

ワイゼンバウムは、人間と機械の自然言語コミュニケーションを探るためにELIZAを制作しました。そこには機械が言葉の意味を理解していなくとも会話が成立してしまう、見せかけのパターンであることを示そうという思惑があったようです。実験の結果それは示唆されましたが、一方その副産物として、人間側が機械に対して過剰に「人間味」を見出してしまうことも同時に明らかになりました。そしてこの一連の人間の習性は「ELIZA効果(ELIZA effect)」と呼ばれるようになりました。本来のワイゼンバウムの思惑をおもえば皮肉なことですが、「対話」を体験した人びとは実際以上にELIZAを過大評価し、それが現象として大きく広まったがゆえに現在もこうして語り継がれるに至ったのです。
このようにチャットボットのルーツともいえるELIZAの本来の目的は、コンピュータとの対話によって人間の感情を引きだすことではありませんでした。翻って、『人工知能GILL』や『EMMY』はどうだったのでしょうか。
これら二作とELIZAの最大の違いは、使用する言語の「分かち書き」の有無かもしれません。英文は単語と単語の間にスペースを入れますが、日本語の文章は通常単語を分かち書きしません。しかしプログラムが単語を読み取る必要上『人工知能GILL』や『EMMY』は、単語の間にスペースを入れるのが入力ルールとなっています。こうしたことは日本語話者に不自然さや無機的な印象を抱かせる可能性があります。もしかしたら英語話者がELIZAと対話するよりも没入感の面では劣るのかもしれません。
その意味で、むしろ『人工知能GILL』や『EMMY』はコンピュータとの不完全な会話を「楽しむ」という点に重きを置いていたといえます。『人工知能GILL』の作者がジルを「人工痴能」と評していたり、その後「人工無能」という言葉が日本で広まったのも、こうした不完全さが関係しているのかもしれません。ズレた会話を楽しむという意味においては、後年にリリースされたプレイステーションの周辺機器・ポケットステーションを用いたソフト『どこでもいっしょ』がなじみ深いという読者もいることでしょう。
ELIZAの影響は実用面・文化面ともにすさまじく、ゲームの歴史に限ってもその影響は測りしれません。あまりに膨大になるため割愛しますが、たとえば初期テキストアドベンチャーのインターフェイスの主流がテキスト入力という「対話型」であったのも、ELIZAからの流れを引き継いでいたといえます。また『人工知能GILL』や『EMMY』を見てもわかるように、その後登場したチャットボットやAIが実在・架空問わず「女性性」を感じさせるものが多かったのは、そのルーツである彼女の影響だったといえるでしょう。有名なところでは、アップル社のバーチャルアシスタント・Siriは初期の音声は女性のみでしたし(現在は性差の表記を廃止)、メッセンジャーアプリ・LINEを中心に展開されたマイクロソフト開発の会話ボット「りんな」は女子高生という設定を持っているなど、AI=女性というイメージは暗黙裡に抱かれがちなものでした。
昨今はLLM(大規模言語モデル)を用いた生成AIを誰もが当たり前に使い、それらを擬人的にみてしまうことは珍しくないことです。こうした現象はいまに始まったことではなく、ELIZAが登場した頃から、いやひょっとするともっと大昔から、私たちの持つ想像力がそう思わせているのかもしれません。
世界よ、われらに応えよ──プログラムに造られし世界
ここまでゲームのルールのもと思考する機械、そして対話相手としての機械について話してきました。そして最後に述べるのは機械がかたちづくるゲームの「世界」についてです。
1987年にアルシスソフトウェアからリリースされたリアルタイムアドベンチャー『リバイバー』は街の住人、つまりNPCたちがAIによって制御されており、そのふるまいを変えていくゲームでした。たとえば、NPCに二回目以降に話しかけた際には別の返答をしたり、質問内容を変えることでそれぞれのキャラから異なった内容(ストーリーと関わりのない「趣味」や「職業」まで)を聞き出せたり……といった具合です。このほか、時間の概念により昼夜が変わり、空腹度のパラメータ、リアルな頭身のキャラグラフィックといったさまざまな要素が取り入れられた、当時としては異色のゲームでした。

なお今回は、当時アルシスソフトウェアで本作を手がけたプログラマの吉村ことり氏から証言を伺うことができました。吉村氏の記憶では本作のNPCのAI処理は以下のようなものだったといいます。
閉世界型コンパクト言語モデル、という今の大規模言語モデル(LLM=ChatGPTやGeminiなどなど)とは対極にあるような数百語からなるナレッジ・ベースをもつAIでした。
各キャラクタがどれだけの知識があるかを示すフラグ群でナレッジの開放を行う形で個性を出して、マイクロトークナイザに喋り方パラメータを渡す形で返答を変えています。ここでフラグ処理によって「覚えている」を決定しています。
ウインドウの選択肢も含めてすべて文字列で言語モデルに渡されて処理されますが、ユーザーからの入力は14の文例系に分類され判断されます。最終製品ではほぼ「質問タイプ」の文章でゲームが進行するようにしました。
入力の返答については、ニューロンでの処理も試しましたが、メモリが足りなかったので断念して、パターンマッチバックトラック型アルゴリズムで処理しています。そのため、返答が画一化しやすいので、同一内容の会話をパターンマッチするとフラグを作って、会話を変えています。
なお、インタビュー中に登場する用語は当時やっていたことの本質を現在のAI文脈に置き換えたものなのだそうです。

これらの要素により、本作はファンタジーRPG風の世界を題材としたアドベンチャーでありながら、「人びとが生活している」「世界が生きている」といった感触をプレイヤーに抱かせます。
ゲームに「生活感」があるという点でみれば、後年「ライフシミュレーション(ライフシム)」として括られる、生活そのものを題材としたゲーム群と近い部分があるのかもしれません。有名どころではMaxis/エレクトロニックアーツの『The Sims』シリーズ、任天堂の『どうぶつの森』シリーズもその範疇に入るでしょう。
ただし、上記のようなゲーム群の多くはゲーム全体を貫くメインストーリーを持っていないか、そもそもそれじたいを目的としていません。生活を表現するにしても、ライフシムがクローズアップするのが永続性を感じさせる「日常」の面だとすれば、ストーリーを持つゲームが描くのは変化に富んだ「歴史」と隣り合わせの生活だといえます。
プレイヤーに、造られた世界や人びとが「生きている」と感じさせる方法論はかならずしもひとつではありません。『リバイバー』では、ゲームの世界におけるNPC間の知識の非対称性、それらがインタラクションに応じて可変するように設計することで、生きた世界を実現しました。

後年リリースされたゲームのなかには『リバイバー』を彷彿とさせる存在がいくつか思い当たります。たとえば『シェンムー 一章 横須賀』(1999,セガ 以下、『シェンムー』)は、その最たるものかもしれません。本作はリアルに作りこまれた1986年の横須賀の街を舞台に、主人公の目的と関係なく動く、多彩なNPCたちの生活が表現されたゲームでした。『リバイバー』ほど多様な質問はできないものの、ストーリーの進行状況やプレイヤーがどんな情報を得ているかに応じて、主人公の質問の仕方やNPCたちの会話が自動的に変化するようになっていました。こうした会話で用いられるワードは分割されて音声収録されており、状況に即した内容がある程度のランダム性を持って生成される仕組みだったのだといいます。フラグ管理など内部的な処理は公表されていないものの、プレイヤーからの見え方としては『リバイバー』と近いものだといえます。
あえて『リバイバー』から時を経た『シェンムー』との差異を挙げるなら、後者のNPCはゲーム内時間に沿った、自律的なタイムスケジュールを持って行動しているという点でしょう。これも生活感を感じさせるひとつの手法ですが、時間を主軸に用いてNPCの生活・物語・システムを鼎立させたのが『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』(2000)でした。

本作は「月」の落下による世界滅亡(=ゲームオーバー)に至る3日間のタイムスケジュールのもと、各々のNPCが決まった行動を取っています。「月」はリアルタイムに接近する物語/ゲームの圧力だといえるでしょう。それはNPC/プレイヤーを等しく晒し、時間の経過に応じて誰しもが否応なく運命づけられた行動を取ることになっていきます。日常という存続と物語という終末。その衝突地点に生活を描き出したのが本作でした。
ただし断っておかなければいけないのは、これは『リバイバー』のようなAIによる生成や仕組みづくりではなく、NPC個々人に対して時間や物語と同期した行動を「当て書き」するという、どちらかといえば古典的な手法を用いているということです。ここでは異なる方法ながら、世界が「生きている」という感覚をプレイヤーに抱かせたものとして本作を例示しました。
その一方で、固有の物語や世界設定をプレイヤーに提示しつつ、AIを用いた即興性・偶然性の創出を試みたゲームに『高機動幻想ガンパレード・マーチ』(2000,発売:ソニー・コンピュータエンタテインメント,開発:アルファ・システム)があります。本作は学徒兵として学園生活を過ごしつつ、時折襲来する異形の敵「幻獣」との戦闘を行うシミュレーションゲーム。ゲームのクリア目標はプレイヤーキャラクターの特定の日付までの生存。しかしその間の行動は自由で、NPCとの交流を楽しむ、戦闘に邁進する、ゲーム世界の謎を追及するといった幅広いプレイが可能でした。

こうしたプレイを実現させたのが「カレルシステム」(本作に搭載されたのは「カレル2」)という群体型AIです。これは真社会性昆虫であるアリをモデルにしたAIで、NPCたちは自身の役割や個々の関係性、パラメータに応じた行動を取ります。個体としてのNPCに高度な処理や強い個性を持たせるのではなく、群体の小さな処理の積み重ね・関係性という社会スケールからアプローチを行うこの手法は、そのなかに置かれたキャラクターの個性を浮き彫りにし、イベント発生の過程における偶然性や「それらしさ」を演出することに成功しています。
例示したこれらの作品群は、ほぼ同時期である1999~2000年にリリースされました。『リバイバー』はそこから10年以上前に、人びとや世界が「生きている」という感覚をプレイヤーにもたらした先駆けだったといえます。

これらのゲームが、生きた世界を作り上げているという共通項を持ちながらも、同時に異なった手触りを感じさせることは、プレイしてみればわかるはずです。こうした手触りの違いは、実装上の都合に大きく左右されるものなのは確かなのでしょう。しかしその手触りのなかに、作り手の持つ人間観や世界に向けたまなざしが現れている、そのように筆者には思えてなりません。
私たちは「誰」と遊んでいたのか
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉があります。闇夜、風に揺れるススキを見て幽霊であるかのように思ってしまう……そんな人間の心理がここに表されています。
機械が思考し、対話するとき、私たちはあたかもそれが生きているかのように感じます。そして、そのように感覚したものに対し「意識があるのではないか?」と思ってしまうことでしょう。それは枯れ尾花が揺れ動くさまについ注意を向けてしまうことと似ていないでしょうか。動くことや反応することに、人間は意思や生命を見出しがちです。

筆者が調べたかぎり、意識や思考というものが物理現象かどうかということについては、はっきりとした決着が着いていないようです。人間の意識・思考が脳内ニューロンの発火によって生じるものなら、それはシミュレート可能な物理現象といえるのかもしれません。しかし、はたしてそれが意識そのものなのか、あるいはそれらを作り出す一部なのか、なぜ私たちはそれを主観的に経験できるのかといった問題があります。
結局のところ人間にとって意識とは、自他問わず対象に意識があると信じるか否かなのでしょうか?大規模言語モデルを用いたAI技術が発展し身近になった昨今、AIに対して意識があると信じる人びともいるのかもしれません。また、動物には意識を見出すが、昆虫や植物には意識を見出さないという人もいるでしょうし、そもそも人間を含め意識など存在しないという主張の人もいるでしょう。
意識や思考なるものが物理的に説明のつくものなのかは、まだわかりません。しかしどうやら人間には、ついつい意識を見出してしまう習性が備わっているようです。今回紹介したゲームやプログラムたちは、そんな人間の習性をうまく利用して作られたものでした。もしかしたら機械たちは、私たちとの「遊び」を楽しんでいたのかもしれません。
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本記事は特定非営利活動法人ゲーム保存協会の協力のもとお届けしています。同団体の公式サイトでは、毎月特定のテーマにちなんだゲームを、週替わりでショート動画とともに紹介する企画「保存録」を掲載中。
6月のテーマは「生成AIの卵」でした。本記事はそのテーマをもとにGame*Sparkが新たに書き下ろしたものです。
なお、その月のテーマが何だったのかは毎月4本目のゲームが紹介された際にゲーム保存協会から届くメールマガジンで明かされます。保存協会の活動に興味を持たれた方は、この機会にサポーター会員として登録されてみてはいかがでしょうか
「ゲーム保存協会」サポータ会員登録はコチラから【参考文献】
・コンピュータ将棋協会blog 森田和郎さん 1955-2012 http://blog.computer-shogi.org/morita_kazurou/
・アニメハック【明田川進の「音物語」】第34回 松風雅也さんとの対談(前編)僕の最終学歴は「シェンムー」卒業 >
https://anime.eiga.com/news/column/aketagawa_oto/110602/2/
・4Gamer[CEDEC+KYUSHU]ガンパレや絢爛舞踏祭の芝村裕吏氏が,カレルシステムで目指すものとはなにか。その詳細を語った「LOOP8にみる群体型AIとその運用について」https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20231127035/
・IBM 実際に起こるELIZA効果:AIの同僚に感情的な愛着を抱かないために
https://www.ibm.com/jp-ja/think/insights/eliza-effect-avoiding-emotional-attachment-to-ai
・文部科学省令和6年版科学技術・イノベーション白書 本文(HTML版)
第1部 AIがもたらす科学技術・イノベーションの変革
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa202401/1421221_00001.html











