
先日、『アーマード・コア』シリーズへの独自の視点からの言及をきっかけに、多くの日本人から「ロボゲー・ロボアニメ詳しすぎな外国人」として知られるようになったオリー・バーダー氏。実は、氏はゲームやアニメを中心として日本サブカルを海外に長年伝えてきた記者であり、様々なタイトルにかかわってきたゲームクリエイターでした。
弊誌の取材に対して、そんな氏がこぼした最近の悩みと言えば「ロボゲーを作らせてくれるスタジオが見つからない!」ということなのだそう。そこで、本稿では、氏の文章を通じて、氏のもつ「ロボゲー・ロボアニメ」への視点や美学の一端をお伝えしていきたいと思います。
今からずいぶん昔のことになりますが、私はセガサターン版の『電脳戦機バーチャロン』に初めて触れる機会を得ました。当時は、このゲームが後に私の人生にさまざまな形で大きな影響を与えることになるとは、夢にも思っていませんでした。
初めてこのゲームをプレイしたのは、友人がセガサターンを家に持ってきてくれたときでした。二人で一緒に遊びながら、彼はこのゲームがダッシュ攻撃を軸にしたシステムであること、そして相手との位置関係を常に意識し、先を見据えて行動する必要があることを教えてくれました。
また、このゲームには明確に分かれた二つの距離帯が存在し、近接戦闘になると操作方法が変化し、敵の周囲を回り込みながら斬りつけることが可能になる点も非常に印象的でした。
私たちは、カトキハジメ氏がデザインされたさまざまなメカをすべて試しましたが、どれも非常に素晴らしいものでした。その中で私は、性能のバランスが良く、爆弾を戦術的なシールドとして活用できる点から、最終的にテムジンを選びました。
学校に戻った後、別の友人もこのゲームを持っており、休み時間に一緒にプレイしたことをよく覚えています。アリーナ型のアクションゲームでありながら、非常に戦略性の高い戦闘を楽しめる点に、改めて強い魅力を感じました。

アーケードで『バーチャロン』をプレイするということ
ちょうどこの頃、私はこのゲームがもともとアーケードで稼働していた作品であることを知り、実際にプレイできる場所を探すようになりました。当時、私はイギリスのハンプシャー州にある小さな村に住んでいたため、ゲームを遊ぶには列車に乗ってロンドンまで出向く必要がありました。
私がアーケード版の『バーチャロン』をプレイできる場所として見つけたのは、主に三か所でした。トロカデロにあったセガ・ワールド、ピカデリー・サーカスのナムコ・ワンダーパーク、そしてロンドン北部エッジウェアにあったヤオハンプラザです。
最初に訪れたのはセガ・ワールドでしたが、そこで私はすぐに、アーケード版の操作感やゲームのテンポがセガサターン版とはまったく異なることに気づきました。セガサターン版ではほぼ瞬時に操作が反映されるのに対し、アーケード版では各ダッシュの終わりに明確な“間”が存在していたのです。

その結果、ゲーム性は大きく変化し、要求される戦略性はセガサターン版では到底実現できないほど高いものとなっていました。
しかし、ここで一つ問題がありました。新しいタイミングを習得するには、対戦挑戦者に次々と割り込まれない環境が必要だったのです。実際にはほとんど負けることはなかったのですが、当時のセガ・ワールドやナムコ・ワンダーパークはいずれも非常に混雑していました。そのため、私は比較的落ち着いて練習できるヤオハンプラザに通い、アーケード版を徹底的に学ぶことにしました。
ヤオハンプラザを選んだ理由は、もう一つありました。そこには大きな紀伊國屋書店があり、さらに日本食を楽しめる店も数多く揃っていたのです。
私は、丸一日ヤオハンプラザで過ごし、アーケード版の『バーチャロン』を研究し、合間に日本の漫画やメカ系の画集を眺め、昼食を取り、そして再び『バーチャロン』の研究に戻る――そんな日々を送っていたことを、今でもはっきりと覚えています。
ロンドン・バーチャロンクラブの設立
こうした日々は一年から二年ほど続き、やがて私はこのゲームの腕に長けた仲間たちと出会うようになりました。そして私たちは、ナムコ・ワンダーパークを拠点として「ロンドン・バーチャロンクラブ」を立ち上げることになったのです。
この時期に出会った、私にとって最も大切な友人の一人が、現在は「サウア・ダッシュ」と名乗っている人物です。彼は、私の人生で出会った中でも、最も独創的なゲーム設計・分析の才能を持つ人物の一人でした。残念ながら彼自身はゲーム制作の道を選びませんでしたが、ゲームの複雑なシステムを分解し、理解する能力は、当時も今もなお、まるでニュータイプのような天才的水準だと感じています。
サウアは、私たちが出会った当時、セガ・ワールドで働いていました。アーケード筐体の修理技術者の一人であり、セガのアーケードゲームに対して深い愛情を持っていました。当時、彼は私を業界向けのアーケード関連イベントに連れて行ってくれたり、筐体がどのように修理され、どのような仕組みで動いているのかを丁寧に教えてくれたりもしました。
後に私自身が『バーチャロン』の筐体を購入することになるのですが(その話はいずれ触れます)、その筐体を修復し、再び稼働できる状態にまで仕上げてくれたのも、彼でした。
さて、その後の一年間、ロンドン・バーチャロンクラブ――通称「LonVOC」は、ナムコ・ワンダーパークで大きく発展していきました。スタッフの方々もクラブの活動を非常に好意的に支援してくださり、『バーチャロン オラトリオ・タングラム』が稼働を開始した際には、私たちのために日本から筐体を輸入してくれるほどでした。
それ以前にも、私たちは初代『バーチャロン』で数多くの大会を開催していました。ヤオハンプラザでの徹底的な練習の成果もあり、私は多くの大会で優勝することができました。しかし、何度か参加した後は自ら一歩引き、より新しいプレイヤーたちが大会に参加し、その楽しさを味わえるように心がけるようになりました。
自分自身の『バーチャロン』筐体を購入して
これらすべては、私の人生において決して長くはありませんでしたが、非常に重要な一時期でした。もし『バーチャロン』と出会っていなければ、私はここまで深くビデオゲームや、その制作の仕組みに興味を持つことはなかったと思います。また、後年になって他の多くのゲームに取り入れられることになる複雑なゲームメカニクスを、『バーチャロン』がいち早く実現していたことに対して、これほど強い敬意を抱くこともなかったでしょう。
大学在学中でさえ、私は学生自治会に働きかけて『バーチャロン』の筐体を導入してもらうことに成功し、多くの人に興味を持ってもらおうと努めました。しかし残念ながら、難易度が高すぎると感じる人も多かったのが実情でした。
その後、ゲーム業界でのキャリアをスタートさせ、エレクトロニック・アーツにて認証テスターとして働き始めたのですが、その頃に私はついに自分自身の『バーチャロン』筐体を購入することになります。それは二人用の大型筐体で、重量は500キログラムを超えるものでした。サウアが修復を手伝ってくれたのですが、10年以上前に日本へ渡る際、やむを得ずその筐体を手放すことになったことは、今でもとても寂しく感じています。

しかし、すべてが失われたわけではありませんでした。PlayStation 2のセガ・エイジス版、そして現在の『電脳戦機バーチャロン マスターピース 1995~2001』のおかげで、私は今も十分に楽しむことができています。特に後者には、タニタ製の素晴らしいツインスティックが用意されています。私自身が購入し体験したかぎり、その操作感は、かつて愛したアーケード版とまったく遜色のないものです。
いずれにしても、『バーチャロン』は、私にとって史上最も好きなメカゲームの一つであり、人生のさまざまな側面に影響を与えてくれた作品です。そのため、私は今でもこのゲームを非常に懐かしく、そして愛情をもって振り返っています。現在、セガがこのシリーズを積極的に支援していないことは残念ではありますが、それでもなお、いつでもこのゲームを遊べる環境があることを、私は心から嬉しく思っています。
オリー氏とともに「ロボゲー」を作ることに興味のあるスタジオや団体は、この記事の末尾にある氏のプロフィールから個別に問い合わせていただけますと幸いです。










