『HUNDRED LINE』にみる日本の「戦争」

日本でイメージされる、いわば馴染みのある「戦争」といえば、本作がリリースされた昨年に終戦80年を迎えた太平洋戦争(この呼称には議論があるが、本記事ではこれを用いる)となるだろう。なぜならこの戦争以来、日本は憲法で他国との交戦を認めず、内戦と呼べるような事態も起こっていないからだ。公教育の過程でも、ある程度時間が割かれ、この戦争について授業がおこなわれる。日本では世間一般に「先の大戦」「前大戦」「あの戦争」などという場合、真珠湾攻撃に端を発する日米開戦(1945年12月8日)からポツダム宣言受諾(1945年8月15日)までのこの戦争がイメージされることが少なくない。

『HUNDRED LINE』では、この80年前の戦争イメージが明白にモチーフとして使用されている。日本で公教育を受けたり、日本国内の創作物にある程度触れたことがある者ならば、その描写をみればすぐに察せられるはずだ。なお本記事は筆者が日本語モノリンガルということもあるが、基本的には日本語話者の読者を想定して執筆している。

まず、主人公たちは「特防隊」と呼ばれる戦闘部隊である。その名称のモチーフは明らかに、戦中に航空機や人間魚雷で体当たり攻撃をおこなった「特別攻撃隊」だろう。学生番号に使用される旧字体、踏み切り台から空に向かって飛びたつことで戦地に赴くという出撃方法も一層その印象を強める演出だ。

特防隊員たちは自らの心臓を「我駆力刀(がくりょくとう)」という特殊な刀で貫くことで異能の力「我駆力/異血(がくりょく/いけつ)」を持つ存在に変身する。かれらが放つ必殺技は、自らの命と引き換えに敵に大ダメージを与える十死零生の戦法である。

ゲームシステム上、その死体はすぐさまドローンで回収・再利用され、ターンをまたげば復活する。ストーリー設定上でも「異血」と呼ばれる血を奪われない限り、彼らは何度でも甦る。この点はいかにもゲーム的な死後復活のパロディでもある。

また、かれらが学生であり、古めかしいデザインの詰襟学生服風の戦闘服「学生鎧(クラスアーマー)」を着用していることも戦時下の学徒動員や軍服のイメージ(ただし「学徒出陣」は19歳以上が対象)を喚起させる道具立てといえるだろう。

特防隊が100日間防衛する学園には最終兵器が秘蔵されている。それは大地を焼き尽くす「消えない炎」を蓄えたミサイルであり、地上のすべての生物を死滅させる。これは日本においては広島・長崎に投下された原子爆弾のイメージが想起させられる。あるいは本土空襲や沖縄戦で生じた焦土も重ねられるかもしれない。

最終兵器は使われるまでの間は兵器ではない。ミサイル発射までの100日間、兵器に蓄積されたエネルギーが学園の電力機能などを維持し、また周囲に消えない炎の障壁を作り出すことで特防隊員たちを守り、生かしている。最終兵器を原子爆弾として捉えた場合、そこには原子力発電のイメージも重ねられるだろう。そのエネルギー源は、学園の奥に眠る特殊な力を持った「赤子」によるものだ。赤子とは比喩ではなく本物の胎児のことで、彼の蓄えたエネルギーを使い果たすことで最終兵器は発動する。それは彼の死を意味する。

「赤子」は意思を持った思念体として主人公たちの前に現れ、ルートによっては特防隊に協力、その一員となる。特防隊に望まれた究極の任務とは実際には最終兵器の防衛であり、それが果たされればかならずしも故郷に帰還する必要はない。100日間の学園生活の終わり、卒業とはつまり死である。その命と引き換えに敵を殺し尽くすという意味において、赤子もまた特防隊のひとり、運命共同体なのだ。

彼が命を燃やし尽くす100日目、それまで警報やチャイムを発し続けていたスピーカーから、ショパンの練習曲作品10第3番(「別れの曲」として知られる)が流れはじめる。次いでミサイル発射が予告され、特防隊に退避を呼びかける最後の放送が発せられる。それは、先の大戦において日本臣民たちがスピーカー越しに耳にした、戦争の終わりを告げるラジオ放送*(1)を彷彿とさせる。

このように『HUNDRED LINE』には「戦争」、特に日本が経験した「先の大戦」のモチーフが見て取れる。それは具体的な記録と、教科書的な記述によって私たち(本作のクリエイターも含む)が知りえる、あくまで抽象化された「戦争」イメージによって構成されたものだ。私たちは戦争を知らないために、戦争をキャラクターやフィクションとして扱わざるをえない。本作について、クリエイター側から「先の大戦」がモチーフであるという明言は確認できない。もしかしたらそれは、本作が娯楽作品であろうとする販売上の理由、あるいはクリエイター側の意思なのかもしれない。

こうしたスタンスは『ダンガンロンパ』シリーズをはじめ、小高和剛氏が手がけてきたゲームにも共通していたように思われる。もちろん筆者が見逃しているだけで、いま同クリエイターの過去作品をプレイした場合、なんらかの政治性を見いだせる可能性は否定できない。たとえば『ダンガンロンパ』シリーズは隔絶された学園でのデスゲームを、『超探偵事件簿レインコード』はディストピア社会と化した企業城下町での殺人事件を描いていた。

本作と上記2作には囚われと脱出、知ることへの欲望、自己同一性といった共通したテーマは見出だせる。ただ思い返しても過去の作品は、本作ほどには政治性を強調していた印象はあまりない。それらと比較してここまでわかりやすく、直接的に政治的なテーマが取り扱われていた例はなかったのではないか、と筆者は思う。
100、百、HUNDRED――それは数が多いこと。たくさんであること。もろもろの。

『HUNDRED LINE』には「100個の結末」がある。それらが辿るのはコメディから残酷なもの、対立、逃避、全滅、青春、独裁、恋愛……などさまざまある。筆者自身、その結末をすべて経験したが、良かったと思うものもあれば、がっくりとくるようなもの(ショッキングという意味でも腰砕けという意味でも)があり、その経験はバラバラである。

本作のルートや結末に序列はない。ただ実際のところ、プレイヤーから最重要視されるであろうルートは「真相解明編」と「SF編」の100日目の結末に絞られるだろう。前者は小高和剛氏が、後者は打越鋼太郎がシナリオを手がけた。むろんこれ以外のエンドがプレイヤーにとって無価値だといいたいのではない。たとえば、ルートによってプレイヤーそれぞれの嗜好に合致することはあるかもしれない。
ただ、固有の世界設定を持ったひとつのゲームとしてみた場合、十全な納得感をプレイヤーが得られるのは上記ふたつのルート群に限られるだろう、ということだ。複数の分岐が別々の結末・順路を辿るゲームとして近年では『Detroit: Become Human』といったものが代表されるが、本作はこちらのような、プレイヤーそれぞれの物語体験を初回のプレイにおいて生起させるゲームというわけではない。

本作にはまず既定路線としての「真相解明編」があり、それだけでも単体として成立しうるシナリオになっている。『HUNDRED LINE』は最初のエンディングにたどり着くまでは選択肢のない一本道のストーリーが展開される。その結末とは、100日目を迎えた主人公・澄野拓海が、その記憶と能力を引き継いで学園生活の2日目へとタイムリープするというものだ。これ以後、タイトル画面は『HUNDRED LINE 2』(以下、1周目を『1』、2周目を『2』と表記)に変化する。こうして『2』の世界に移った澄野は、『1』で霧藤や仲間たちを失った悔恨を胸に『2』でやり直しを行うことになる。

『1』から『2』への変化で起こるのは、選択肢による分岐の出現だ。実際には『1』でも選択肢じたいは現れるのだが、どちらを選択しても物語は分岐しない。澄野の試行錯誤は、まさしくゲーム的な選択肢という形であらわれ、都度決断を迫られる。特定のタイミングでの決断は、選択結果によってそれぞれ異なる「〇〇編」へ突入する契機となる。「100個の結末」は大きな潮流である「〇〇編」のうちのひとつとして扱われる。そして「真相解明編」と「SF編」で100日目を迎えるエンディングとは、数ある結末のなかでも澄野が決断を「誤らなかった」シナリオ、有り体にいえば「トゥルーエンド」であるように思われる。

「100個の結末」は水増しのように思えてしまうものもある。プレイが苦しいものもある。だからといって「トゥルーエンド」的なもの以外がすべて無価値なわけではない。一本道の不可避な帰結。そのようにしか思えないものを選び取ること。それは選ばれなかった無数の選択・ルート・結末があることってはじめて成立するのだから。
丸く収まる直線はどこまでもまっすぐに延び続ける

運命を変えるための時間遡行、分岐するルート。そのなかでも打越がシナリオを担当した「SF編」では、他のルートとは若干異なる「タイムループ」が主軸となっている。他のルートの澄野は基本的に『1』→『2』への一度きりのタイムリープを認識しているのみである。しかしこの「SF編」では、特防隊メンバーの雫原比留子から彼女自身、そしておそらく澄野もループしているであろうことが告げられ、他のルートの記憶を断片的に思い出す。こうして澄野は自身が「タイムルーパー」であったことを認識し、ふたりはそのループから脱け出すことを目標とする。

このシナリオではタイムループだけでなく、平行世界間の移動である「パラレリープ」が発生する。これは別の次元、つまり別のルートの同一の日付へのワープという設定になっている。「SF編」は他のルートと比べてやや特殊な立ち位置にあり、他のルートの進行度によってストーリー進行のフラグ管理がなされ、チャプターセレクト画面である「タイムライン」が本ルート上の設定として活用されている。一部場面では、複数の主人公の切り替えによってストーリー進行をおこなうザッピングシナリオに近い形式となっており、前述のタイムラインも含め往年のアドベンチャーゲームを思い起こさせるルートであることは間違いない。

ただ、本作で切り替えられるのは別の人物ではなく、別ルートの同一人物、澄野拓海本人である。「SF編」のシナリオは、一見すると他の複数のルートを包含するという意味では、いわゆるトゥルーエンドに近いもののように思える。ただし「SF編」の澄野拓海の視点からすれば、他のルートの澄野拓海の生とは体験不可能なものであり、それは他のルートの澄野拓海からも同様である。同一人物でありながら、澄野は可能性のなかで分岐し、複数形の澄野たちとして存在している。

一方、雫原とプレイヤーは一貫性を持った同一の個人としてこれまでのループを経験している。もちろん澄野同様に雫原は他のルートにも複数いる。だがそれらは「SF編」の雫原が経験した、過去の自分自身だといって大差ない。プレイヤーは「SF編」のシナリオ進行を阻むロックを解除するために、他のルートを進めるのだが、これは雫原とプレイヤーの記憶と行為を同期させるための仕掛けである。

澄野が意思を持ってループし、意識を引き継げたと自己認識できるのは『1』から『2』への時間移動の一回きりだ。そこから分岐したいくつかのルートは「SF編」において実はループしていた(が、澄野はその度に記憶を失っていた)ということになっているが、他方でこれが「SF編」のみの事象であるとすれば、他のルートでループが起きなかった可能性は必ずしも排除されないし、両立しうる。

澄野は『1』の経験を悔やみ、『2』でそれとは異なるオルタナティブな結末を目指したが、その「クリア条件」は明確ではなかった。「SF編」は、実は澄野が望んだままに特防隊に救いをもたらすルートとは言いがたい。彼はそのピースだった。むしろこれは雫原とプレイヤーが夢見、奔走した結果選び取られたルートだといえる。特防隊全員の生存と、雫原と澄野のループからの脱出、そのふたつの条件は願望と同一化している。このルートでの澄野の最大の役割は、『1』で救えなかった雫原を救うことにほかならない。ひとつの生命が生き延びることが全員生存への扉を開く。生き続け繰り返す後悔と、たった一度の決死の決断。そのふたつが出会うとき、ハッピーエンドが訪れる。その先に延びる線の行く末は、誰にもわからない。












