カール・シュミットから考える『HUNDRED LINE -最終防衛学園-』の「戦争」と「政治的なもの」【リリース1周年特集】 4ページ目 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト

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カール・シュミットから考える『HUNDRED LINE -最終防衛学園-』の「戦争」と「政治的なもの」【リリース1周年特集】

決断、味方/敵、例外……『HUNDRED LINE』のなかに見た20世紀の戦争。法哲学・政治学の大家 カール・シュミットの著書を傍らに本作をプレイしたあるプレイヤーの記録。

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カール・シュミットから考える『HUNDRED LINE -最終防衛学園-』の「戦争」と「政治的なもの」【リリース1周年特集】
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「人類」の名のもとに

『1』において澄野は、守るべき幼馴染と、帰るべき故郷の存在が戦う理由となっていた。澄野拓海というミクロな視点からすれば、それは自身の記憶と、記憶の中に存在し、現在を形づくる自身を守ることである。だがその記憶も肉体も作りもので、「守る/帰るために戦う」という彼自身の信念さえ地球人類全体のために設計されたものにすぎなかった。これは細かい差はあれど特防隊全員に共通している。

他方マクロな視点では、特防隊の「防衛」とは実際のところ地球人類による他星に対する一方的な「侵攻」だった。地球とよく似た惑星に住むフトゥールムの人びとからみれば、特防隊のほうこそがむしろ「侵攻生」と呼ぶにふさわしい、秩序を乱した「敵」だったのだ。

ここに至ってわかるのは、SIREIも特防隊の面々も、「人類全体」に奉仕するための端末として扱われているということだ。SIREIは特防隊を管理するが、それは「人類全体」に尽くすように設計された無私の行為としてなされる。だがいったい「人類全体」とはなにを指すのか。SIREIが特防隊に対して非人道的な扱いの謝罪をおこなった際、作戦室のモニターには人工天体の市民ひとりひとりの顔が映し出される。SIREIはこれまで市民たちに秘匿してきた特防隊の存在を伝えたのだ。それぞれの人間からは、特防隊という存在を憐れんだり、応援したりしているような様子がうかがえる。だが個人の憐れみは意見や感想に過ぎず、人類全体から算出された結果とはかならずしも一致しないし、その差異には抗えない。

こうした全体は、意図的に個人の顔や責任を見えづらくすることで逆説的に個人を保護・尊重する。先ほど述べたように、AIたるSIREIが処理できるのは個人ではなく「人類」という全体である。皮肉にもSIREIは人類は愛せても、それを構成するひとりひとりを蔑ろにしてしまう。モニターに映し出される市民ひとりひとりの顔も、地球人類という同質性を保持する社会の構成細胞にすぎない。そうであるなら特防隊に対するSIREIの扱いにも納得がいく。かれらは地球人類ではなかったから非人道的な扱いを受けたのではない。むしろ「人間」だったからこそ非人間化されたのではないだろうか。

シュミットは国民の同質性が国家の秩序において重要だと考えていた。そして『HUNDRED LINE』で人びとが生きる団地や学校という場には、同質性のイメージがつきまとう。特防隊は「個性的な」キャラクターで構成される集団だが、その記憶にも生まれにも、同質性が埋め込まれている。

日本の芸人・コウメ太夫氏のXポストより*(2)

「人間」は「敵」の姿で現れる

地球人類によって侵略を受けたフトゥールムという種族は地球人類によく似た外見と文化を持っていたという。本作において描写されるのは惑星のほんの一地域、それももはや破壊されたものしか残っていないが、少なくともその地域は作中の人工天体そして我々の生きる現代日本に近しい文明を築いていたことがうかがえる。

だが『1』において、特防隊員たちとフトゥールムは相互に言語が理解できない。さらに学園に侵攻してくるフトゥールムの英雄たちは、異形の姿「∞態(むげんたい)」となり襲い掛かってくる。SIREIたちが真実を隠蔽していたこともあって、フトゥールムは人間ではない「人型の侵攻生」として特防隊に認識され、処理される。

フトゥールムの戦士は敗北すると∞態が解除され、人類として認識されうる姿に戻る。ほぼ人間と言っていい外見だが、かれらのほとんどは顔を晒さず、頭部全体を仮面で覆っている。それが彼らの信仰の教義であり、敵前に顔を晒すことは敬意の表明や降伏を意味するからだ。

作中、『1』ではじめて顔を晒し、助命を乞うたフトゥールムの英雄・イヴァーは、特防隊の捕虜となる。そして後半にはイヴァーの姉でフトゥールムの大将軍・ヴェシネスが現れ、同様に顔を晒す。顔の見える、自分たちとおなじ「人間」のような存在は、特防隊員たちの持つ「敵」のイメージを揺らがせる。

特防隊員と侵攻生(フトゥールム)の関係は最初から敵/味方に分かれていたかのようにみえる。だがそれはシュミットが評価した政治的「敵」同士の戦争ではなかった。なぜなら特防隊は「敵」を「人間」として認識していなかったからだ。

シュミットは「人類」の名のもとの戦争を批判した。なぜなら一方が「人類」を称せば、もう一方は「人類」とみなされなくなるためだ。それは人間同士の戦争ではなく殲滅や処理である。そして20世紀に通用する国際法について、その基にヨーロッパ公法があることを論じている。シュミットが西洋列強各国が植民地を獲得していた時代、ヨーロッパ公法的な規範や価値観を持つ近代国家同士は、「敵」となりえる対等な「人間」だと認識されていたのだという。裏を返せば、その外部にあるものは国家などの政治的主体や「人間」ともみなされなかった、ということでもある。主権国家同士が相互に承認しあい、領土や内政に不可侵で、「戦争」をおこなう権利を持った「敵」=「人間」同士がルールのもとで交戦する。シュミットが理想としたのはそんな国家・国際秩序だ。

主権者が敵/味方の区別をし、公に戦う可能性のある政治的共同体、それが「敵」(公敵・公的敵・hositisとよばれる)である。そこには善悪などの道徳性はなく、その対立構造だけが見出されている。それに従えば『1』において澄野たちは「敵」と戦っていたわけではない。SIREIは毎朝のアナウンスで侵攻生を「仇敵」と表現していたが、これはまさしくシュミットが政治的対立を理論化するうえで排除した敵(私敵・私的敵・inimicusとよばれる)である。

フトゥールムの持つ顔を隠す教義とSIREIら人類の思惑は、このゲームの謎を成立させる道具立てとして結合し、特防隊がフトゥールムを「人間」として認識できた機会を失わせたといえる。だが本当に特防隊は、ヒトの形をしたフトゥールムを「人間」として扱えなかったのだろうか?逆にフトゥールムは特防隊を「人間」とみなしていたのだろうか?

シュミットは責任を負うのが「誰」なのか、その顔を隠したり、見えづらくさせる制度や主義、討議や手続きを批判した。彼にとって「決断」は責任の所在、つまり主権者の顔がはっきりしているものでなければならない。それは「敵」を対等な「人間」だと主張したことと根源的には通底してるものだと筆者は思う。

問題は、たとえ顔がみえていても「人間」は相手を蔑ろにし得る、ということだ。顔がみえていることが無意味と言いたいのではない。たしかに顔は、強い抑制や秩序の構築にはたらく可能性はある。だがそれも個々の程度問題になってしまう。法・制度・慣習は自然法則にはなりえない。もちろん、だからこそそれを理想とするのだ、という理屈があることもわかりはする。

シュミットは互いを「人間」として扱う味方/敵の区別を論じたうえで、ナチス政権の法基盤を支えた。だが周知のようにナチス政権下のドイツでは、ユダヤ系の人びとが非人間的に処理された。その行為は、まさしくシュミットが批判した「人類」の名のもとの殲滅と違わないのではないか。

なぜ自身が批判していた非人間的なふるまいを推進する側にシュミットは協力したのか?彼は自身の主張を曲げたのか。そもそもナチスにとって、ユダヤ系の人びととは人間ではなかったのだろうか?おそらくそうではない。迫害された人びとはナチスにとっても「人間」のままだった。ただ、かれらが主張する人種的優劣のなかにおいて「人間」として対等ではないとされたのだ。

敵と味方を分ける。その区分けが政治的に固有なものである。犯罪者・悪魔・仇といった道徳的判断ではなく、公的な闘争可能性を持つ「敵」と認定し、秩序化をおこなう。それが一方を非人間化し殲滅する絶対戦争を免れる結果をもたらす。シュミットはそう主張した。それが道徳を排除した理論の内に残された最終的な倫理だった。

だが実際には、ある集団や個人を迫害する理屈に「人類」や「人間」の認定をおこなう敵/味方の区分けはあまり関係がなかった。人間は人間を人間のまま迫害できる。彼の論が取り扱うのはあくまで政治的なものの構造である。一見人道的におもえる要素は、その構造がもたらしうる副産物だ。そしておそらくシュミットにとって、その理論と個人が整合するかということはおそらく関係がない。シュミットは状況のなかで、結果的に役割を演じ分けたのではないか。政治学者としてのカール・シュミットと人間としてのカール・シュミットは必ずしも統一的でなかった、ただそれだけなのではないか。

イヴァーは顔を晒し、特防隊に「人間」として認識されることで捕虜となった。だがその後の彼女の扱いをみると、非人道的なものがどうしても印象に残る。ルートによっては比較的救いのあるものもある一方、フトゥールムとしての過去をはぎ取る洗脳をSIREIに施されるなど、強烈な描写も多い。それは「人間」と認識されたからといって人間的な扱いを受けるとは限らないことを示しているように思える。では一方、彼女の姉であるヴェシネスはどうだったのだろうか。

宣戦布告――「敵」を告げるもの

『1』終盤で強力な異血を吸収し、時間遡行すら可能になった澄野。彼の『2』へのタイムリープは、世界に大きな変化をもたらした。それまで異言語として聞こえていたフトゥールムの言葉が、特防隊全員にも理解できるようになるのだ。そして『1』終盤で登場したフトゥールムの大将軍・ヴェシネスが、『2』では序盤から現れる。

彼女は『1』において、自身のマスクを外して敬意を示し、特防隊に和平を持ちかけると見せかけて騙し討ちを仕掛けた。だが『2』では当初フードを被った状態で登場する。ヴェシネスは、特防隊との闘争に敗北したフトゥールムの英雄たちに自ら手を下し、彼らの能力を吸収していく。そこでヴェシネスは再び顔を晒し、地球人類への宣戦布告をおこなう。このように特防隊員にとって侵攻生が人類として認識され、シュミット的な意味での味方/敵による「戦争」となるのが『2』における変化だといえる。

ヴェシネスは絶対的な「敵」という関係を強く主張する。相互に敵同士であることを望む。個人の無自覚で相対的な正義と悪ではなく、自覚的で絶対的な善悪の基準において地球人類とは悪であり、フトゥールムは正義である。そして彼女個人がフトゥールム全体であるかのようにふるまう。彼女は戦場のみが互いを理解可能な対等な場だと語る。

シュミットは「敵」=対等な人間と認めることで、戦争において殲滅戦を免れると言った。一方ヴェシネスは、特防隊が戦場において自らと対等な存在であると認めつつ、地球人類の殲滅を宣言する。シュミットの理論に従えば、ヴェシネスのそれは「敵」とはいえない。しかしシュミットが人間を人間のまま迫害する側に荷担したことを思えば、理解不可能な話ではない。

その一方、ヴェシネスと澄野はいずれも運命を背負う決断者として通じ合う。そして戦場で殺しあいを演ずる「敵」同士として、理解しあう関係にもなりうる。ヴェシネスが最終防衛学園を占拠する「ヴェシネス編」において、このふたりだけがシュミットの理想とする意味での敵/味方としてお互いを認めあっている。

ヴェシネスは自身単体の驚異的なまでの武力によってフトゥールムに独裁体制を敷き、自らの決定をすべてに優先させる。そしてしきりに「神」になると発言する。フトゥールム人は全体として「神」に対する信仰心が篤い文化を持っていたことが描写されている。その一方でヴェシネスはこうした信仰を忌み嫌い、それを否定する。しかしこれは「神」そのものの否定にはならない。なぜなら「神」を最上位の決定者とする構造を変えていないからだ。

彼女は人間のままでは自らの決断によって生じた責任を引き受けられない。信仰上の禁忌である英雄の共食い(異血の吸収)を犯したヴェシネスは、その責任を引き受けるに妥当する、あるいは責任を引き受けなくてもよい存在になることを欲望する。それが「神」という座なのだ。ヴェシネスは信仰と歴史を否定するが、それらが現在の自身を存立させていることで、苦しみを負う。そして彼女は「神」による「神」の否定を試みるが、それはパラドックスに陥る。

ヴェシネスは、自身が戦争そのものを享楽としている面を隠さない。とてつもない戦闘力を持ち、大変に傲慢な独裁者であることは火を見るよりも明らかだ。だが、そんな彼女も迫ってくる責任には耐え切れない。ヴェシネスはまだ「神」ではない。大きすぎる責任を持て余した「人間」なのだ。

内部の「敵」と秩序の綻び――混沌軍と蒼月衛人

ヴェシネスはじめフトゥールムの英雄たちが特防隊との戦いを演じる一方で、フトゥールム内には別の対立が起こっていた。イヴァーの義娘であり高い才能を持つ巫女・カミュンを中心としたフトゥールム人民のレジスタンス組織「混沌軍」が、ヴェシネスの強権的独裁に抵抗していたのだ。フトゥールムは内部に「敵」が認定される内戦状態にあった。

シュミットは初期の著作でも内戦について論じていたが、研究の後期にあたる1963年に著した「パルチザンの理論」において内戦を詳細に論じた。敵/味方の区別と例外状態は、国家の領域とそれを侵す外敵ととらえるとイメージしやすい。学園を防衛する本作のシミュレーションRPGパートも、作中設定における人類のフトゥールム侵攻も、まさしくそのイメージ通りのものだ。

一方内戦は共同体の内側で起こる敵/味方の区別であり、それはいま挙げたようなイメージから外れる。内戦による例外状態は、外敵による例外状態以上に激しい対立になる、シュミットはそう考えていた。外部の「敵」の出現は秩序を揺らがせるが、そこで決断がおこなわれれば共同体内部の「味方」の結束は強固になり、秩序は回復される。だが内戦はそうではない。内戦は共同体の秩序を内から破壊し、弱体化させる。

国家の秩序や法を領域(シュミットは「大地」といった)と関連付けたシュミットにとって、内戦はその破壊にほかならない。そして、主義や思想が国家を越境し全世界・全人類的に波及することで、内戦がもたらされる危険性を説いた。これは私たちの生きる現代の国際社会においても、異論はあるにせよ普通に理解しやすい考えだろう。

この点『HUNDRED LINE』は、地球人類もフトゥールムも、共同体は極端に敵/味方に単一化して描写されており、複雑さは排除されている。特防隊からすれば、わかりやすく敵と味方に区別されるように「設定」され、フトゥールムはヴェシネスによる全体主義体制を強いられているからだ。混沌軍などの例外は一部あるとはいえ、本作はそういった意味で、基本的には国家対国家の総力戦や最終戦争が念頭に置かれた世界観だといえる。

「独裁政権編」のある結末では、すべての生物がただ自己の生存のためだけに生き続ける泥沼の闘争状態におちいる。

カミュンと混沌軍は『2』のすべてのルートに登場するわけではない。また、たとえ登場するルートであっても死亡してしまうこともある。彼女は侵略を受けたフトゥールムかつイヴァーの義娘であり、本来なら特防隊側に対して攻撃的であってもおかしくはないが、多くのルートにおいて協力的な立場で接触を図ってくる。カミュンが登場するルートの多くでは、既にイヴァーは死亡しており、澄野たちはそのことを悔恨している。彼女は幼いものの大局観を持ち、そうした自身と特防隊側の感情を踏まえた上でかれらを見定め、自分や集団の政治的立場に利するものとして協力を持ちかけるのだ

その最たるものが「独裁政権編」だ。このルートでは混沌軍と特防隊が協力しヴェシネスを打倒、その後フトゥールムを軍備増強し、人工天体と力を均衡させ、戦争への発展を抑止する。こうしてフトゥールムに新たな政権を打ち建てた澄野とカミュンは、戦災復興のための独裁体制を敷く。敵の敵が味方となり、離合集散するこのルートは、最もストレートな「政治的な」ルートだといえる。それは「先の大戦」より以前、日本が幕末から明治に移る際に経験した内戦と、その後の富国強兵に至る道を彷彿とさせる。

このほか、先述の「ヴェシネス編」においてはフトゥールムの英雄たちの内部でヴェシネスに対するフラストレーションによるクーデターが起こるなど、ヴェシネスの強権的な独裁下においても内戦に繋がりうる火種がくすぶっていたことがわかる。

一方、特防隊の内部にも分裂は発生する。とりわけ、生まれ持って人類への嫌悪を持ち『1』で最後に「人類の敵」となった蒼月衛人は、まさしく共同体内の「バグ」、解決困難な問題として存在する。しかし彼は内戦を生じさせる「敵」というよりも、秩序の内部における「犯罪者」により近い。蒼月からすれば人類のほうこそ「犯罪者」なのだろうが。

通常の共同体において「犯罪者」とされたものがそう扱われるように、彼は『2』においてタイムリープしてきた澄野の手でまっさきに檻に収監(あるいは殺害)される。内部からSIREIや特防隊を破壊し、全人類の抹殺を企てる蒼月は、放置するには危険すぎるからだ。だがそれでも彼は正式な特防隊であり、なにより「人間」であることに変わりはない。同じ共同体に属す「人間」でありながら、倫理や規範の理解が望めない存在。そういった解決できないものは排除するか、蓋をして一旦棚上げするしかない。

蒼月は澄野にとって時限爆弾だ。生かしておいても、いつかは何らかの形で決断をくださねばならない。そして蒼月は誰よりもダイレクトにその決断の影響を受ける。彼がふたたび特防隊の前に立ちはだかるのか、あるいは本当の意味で友/仲間となるのか、その思考の「バグ」を強制的に更生させられるのか、自身の意思で克服を試みるのか、そもそも生かしておくべきだったのか……それらの行く末はすべて澄野の決断に帰せられる。

蒼月は自身の命運を澄野に握られているのではなく、委ねている。それは澄野に対する最大の嫌がらせなのかもしれない。特防隊はもとより規範など定められていない集団だ。だが集団が100日間の日々を経て共同体になっていく過程で、一定の秩序が必要とされる。秩序化された「バグ」はもう「バグ」ではない。それはどこまで元の人間性を保っているのか。はたして「バグ」は共同体内に存在できるのか、できないのか、できるとしたらどのような形なのか。これは蒼月による自己の存在を懸けた人類への挑戦なのかもしれない。

シュミットは『パルチザンの理論』において、パルチザン・ゲリラ・レジスタンスなどの非正規兵の扱いが、国家にとって「敵」なのか「犯罪者」なのか、その区別がますます困難になっていることを論じている。もともとパルチザンは土地と紐づいた民衆による、防衛のための抵抗勢力として出現した経緯を持ち、シュミットはそうした土地性や防衛の部分を評価する。しかし20世紀に入ると、先述したように国家を越境するイデオロギーの拡大によりパルチザンやゲリラの様相が変わっていった。かれらは土地や共同体ではなく主義や思想に紐づいた存在となっていき、空間的に外から侵略をおこなう存在だった「敵」と、内部で秩序を乱す「犯罪者」というそれまでのカテゴリーは曖昧化、全人類的な闘争に変化している。これがシュミットの指摘したことだ。

この意味で、『HUNDRED LINE』の混沌軍は土地に根づいた、古典的な抵抗勢力といえる。かれらのイシューはまずヴェシネスの圧政への抵抗、次いで地球人類の侵略からの防衛であり、最終的にはフトゥールムの地での安住を求めている。混沌軍にそれ以上の思想信条はない。フトゥールムの法について細かい描写はないが、フトゥールムそのものを自称するヴェシネスは法を即座に、いかようにも変更できるはずだ。おそらく彼女に反旗を翻した時点で、混沌軍は「正義の」フトゥールムに対する「敵」だとみなされるだろう。

一方蒼月は個人単位で醸成された思想信条の塊である。人類が醜く見える自身こそが正しく、それ以外は間違っている。それは芸術における美醜の価値判断のように思える。その思想が蒼月の一切の行動を規定し、共同体に害をなす。蒼月は特防隊という秩序内部における単独の「犯罪者」として取り扱われた。だが世が世であればその思想は一種のイデオロギーとして世界に伝播したのかもしれない。

混沌軍と蒼月衛人、そのふたつはゲームの物語設定においても、倫理的にも大きく離れた存在に思える。だがそれらは別の立場から「敵」と「犯罪者」のグラデーションを作りだし、決断者の決定を揺らがせる。


ライター:林與五右衛門,編集:みお



ライター/ 林與五右衛門

2023年4月よりゲームライターとしての活動を始めました。『Fable』や『シェンムー』といったゲームから影響を受けてNPCに強い関心を抱き、彼らがゲーム内でどう息づいているのか観察しています。演劇集団ゲッコーパレードのメンバーとしても活動中。

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編集/Game*Spark共同編集長 みお

ゲーム文化と70年代の日本語の音楽大好き。人生ベストは『街 ~運命の交差点~』。2025年ベストは『Earthion』。 2021年3月からフリーライターを始め、2025年4月にGame*Spark編集部入り。2026年1月に共同編集長になりました。

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